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浅間神社正史第三回目





2012年12月27日09時02分


外川真介

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浅間神社正史第三回目

さて、今日も上の坊日記(ブログ)の過去ログから

浅間神社正史第三回





Mon.12.13.2010
浅間神社正史第三回
さて今回は第三回。
第四項について検証していこうと思います。

式内社調査報告書によると、

第四に甲斐国唯一の名神大社が国府をあまりにも離れた場、また考古学的にみて文化程度の低い地に存在するとはみられないこと。

とあります。


非常に書きづらいですが、正直この項には頭に来ました。前半はともかく、後半のくだりは客観的にもひどい言い方ですね。
確かに私が育った時代は、それこそまんが日本昔話に毛が生えたぐらいのど田舎でしたので、報告書の通りかもしれません。
しかし、千年来の富士山信仰や物資流通の拠点であった往時を偲ぶ史跡は村の所々に朽ちかけた状態でも残っているのです。
それを、何の検証もせずに文化程度が低いなどと、よく言い切ったと逆に感心すらしますね。
そもそも当時とのこの強烈なギャップこそ、私を郷土史の世界に引きずり込んだ原因で、しかもちっぽけな歴史ではなく、国史をも揺るがす可能性を持ち合わせているのですから、なおのことです。

できる限り、冷静に分析してお話していますが、この項だけは毎回読むたびに怒ってしまいます。著者も相当怒っていたようです。


さて気を取り直して本題にうつります。
著者は、河口地区内に残る史跡や、また当時を伝える文献などを用いて反証している。
私も近年発見された記事などを使って分析していこうと思います。

つい先日(11/27読売新聞)国史はもちろん山梨県下でも重要な新発見がありました。
河口西川遺跡、住宅建設に伴う事前の発掘調査により、製塩土器なる物が奈良〜平安時代の地層から出土したというもので、所謂塩の道に関わる物証でした。
製塩土器とは、文字通り塩を作るための器で、素焼きのコップみたいな物に海水を汲みあげ、天日に干すか、火に掛けて水分を蒸発させて塩を精製したものを、器のまま運んだのではないかと推定されています。
この出土は、奈良〜平安時代に当時では貴重な塩を、中継、消費、加工などをしていた可能性をおおいに含み、すでに河口が、鎌倉街道の前進である街道の駅(うまや)として機能していたという裏付けの他、街道の重要度や当時の生活水準の高さをを伺い知ることができる好資料です。海のない河口に運ばれた塩は保存食の調理や、祭壇へのお供えの他、駅馬に欠かせない栄養源として与えられていたのでしょう。
また、昨年下水道工事の際、やはり同年代の地層から出土した須恵器には、「川」の文字がはっきり記されており、奈良〜平安時代には河口の存在を確実にし、しかも文字を読み書きする事ができる要人の存在を浮き彫りにしています。これと合わせて片面が墨で真っ黒になった器が出土したことによって、日常的に文字を書いていたこと、すなわち、宛先や荷主など記載や継ぎ荷の札や帳面など書かれていたとを決定づけています。
この経路によって文字や文化、産業の流入もあったであろうとの推測も容易にさせますね。
ちょっと時代が進みますが、御坂峠を越えた御坂町には、鎌倉建長寺末の古刹が多いことも面白い物証で、古来より御師の村であった河口には受け入れられず、一山越えて浸透していったのでしょう、鎌倉時代にはすでに宗教観みたいな物がしっかりと確立しているのですから、なかなかですよね。



一方、本社周辺はどうでしょう?

前回も書きましたが、確かに国分寺、国府あるいは国衙には近いですね。河口浅間神社は富士山を一望できること以外では、この立地では到底かないません。
しかし、若彦路や鎌倉街道の前進しか官道のない奈良〜平安時代に国府あるいは国衙より(各おおよそ五キロほど)離れた本社は河口とは言わないまでも不便であったろうと思います。また仮に当時平安京クラスの大都会(5キロ四方)でもなければ、国府あるいは国衙の中心からは著しく離れている遠隔地であって、さらには、現在面している甲州街道は何百年後の江戸時代に整備されているわけですから、本社までの動線を想像するのは難しいですし、このような立地では、他村とひどく変わったの文化程度ではなかったでしょう。
一番近くにある国分寺でさえ、本社変遷の約100年前に創建されているのですから、国分寺がそれまで機能していたかも不明瞭です。せめて本社創設当時の文化程度を示す、国衙や国府、国分寺との関係性ぐらいは説明があってよいのではないのでしょうか?
また、一国の中心に近いというだけで、他の地を考古学的に文化程度云々とまで言い切るのであったら、それなりの根拠をもっているであろうと、ネット環境でいろいろと調べてみましたが、華々しい文化程度を物語る史料は見つかりませんでした。


平安時代に書かれた三代実録の中には、河口海と書かれています。
おそらく朝廷の要人も河口を通過、利用したでしょう。
甲斐の真ん中の宿駅河口が当時近隣の一大拠点であって、その村の近くに湖があったので、河口湖と名が付いたなんて仮想が成り立ちませんか?
(参考までに古来文献では河口は、川口、河口と二通りの書かれ方が存在します)
また、仮に、奈良時代に河口がなかったとします。平安時代には河口に浅間神社が祀られ御師が発生し、西暦1800年頃の最盛期にはその数を140坊にまでに増やし、全国から道者が押し寄せ、御師の街、甲斐の宿駅として衰退までの約1000年間、甲斐国富士山信仰や、物資流通の拠点であった村が、はたしてそんなに文化程度が低いのでしょうか?
たまたま一国の要衝に近かっただけである村とは、さほどの文化程度の差はなかったのではないかと思うのですが、、。

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富士山北口本宮って富士吉田でしょって皆さま

うっかりしてました、、。

久しぶりの投稿です、、、汗

あけましておめでとうございます。

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上の坊(ブログ)から

ちょっと早いですが、、、

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