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外川真介の特派員報告





2013年5月3日22時15分


外川真介

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UTMF

先日行われたウルトラトレイルで総合3位になられたセバスチアン選手が河口浅間神社で必勝祈願をしているPVです♪

凄くカッコいいのでご覧になってください!!


http://www.youtube.com/watch?v=kRHFGccSTZY&feature=youtube_gdata_player

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2013年4月9日22時18分


外川真介

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富士山北口本宮って富士吉田でしょって皆さま

確かに今はそうですが本来は、、、
数十ねんでイメージって代わってしまうもんですね、、、涙

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2013年4月5日21時40分


外川真介

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うっかりしてました、、。

浅間神社正史の五回シリーズ

最終回の投稿が終わっていませんでした、、。

上の坊日記(ブログ)から

Thu.12.23.2010
浅間神社正史第五回
今回は第五回、始めてのシリーズ最終回です。


長々とお話しして来ましたが、ようやく最終回になりました。
本来はまとめという形がふさわしいのではないかと思いますが、最後にひとつ河口浅間神社の肩書きについて検証していこうと思います。


延喜式内名神大社 河口浅間神社

何がおかしいか、お分かりになりますか?

今回のシリーズを読んでいただければ大方のことお分かりいただけるとおもいます。
河口浅間神社は、有力な論社であることは間違いなさそうですが、あくまで甲斐一の宮の論社であって本宮ではないのですから、延喜式内名神大社の肩書きを使うことは、本来なら絶対に許されることではないのです。
しかし、明治期から大正期にかけて村をあげての社格昇格論争の結果、河口浅間神社では延喜式内名神大社の冠を、公で使わない限り私用は構わないという、許可をいただき、もちろん本社の了承もいただいております。
感の良い方は気づいたかもしれませんが、私用では構わないということがおかしいですね。
仮に私が本社の宮司であったら、絶対に許しません。しかもこともあろうに最有力な論社なのですから、尚のことですよね。
また、触っては行けないことなのか分かりませんが、この件について書かれている文献は見あたりませんでした。

河口浅間神社は明治五年に、社格制定の上申書の御由緒を脚色し、官社から外され、本社が国幣中社、河口は郷社になったという話を耳にしました。
それまでは古文献にも多くみられる通り、おそらく河口浅間神社が甲斐 一の宮だったのでしょう。
しかし本社にとっては願ってもない昇格、河口は制定不服として社格昇格論争を展開します。本社は論争を収拾するべく、余計な抵抗をせず延喜式内名神大社の冠を使うことを了承したのですが、この判断にはおおきな誤算がありました。
それは、延喜式内名神大社の冠の私用に関して、触らずそ〜っとしておくことしかできないことなのです。
もちろん全面的に社格論争をするつもりなら別ですが、寝ている子を起こすようなものなので、下手に騒げば論争が始まるし、かといって冠を降ろさせないと、延喜式内名神大社が河口浅間神社の肩書きとして定着してしまう可能性がありますので、すごいジレンマでしょう。

本社は甲斐一の宮として、その認知度も不動のものになりましたが、今後もこの件に関してノーッタッチなのでしょうかね?

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2013年3月24日20時45分


外川真介

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久しぶりの投稿です、、、汗

折角機会をいただいたにも関わらずサボってばかり、、、

今日は衝動的に一言だけ


いや〜 河口やばいな〜♪

以上です。

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2013年1月11日23時09分


外川真介

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あけましておめでとうございます。

改めましてあけましておめでとうございます。

年をまたぎましたが上の坊日記(ブログ)から

浅間神社正史第四回




Sat.12.18.2010
浅間神社正史第四回
今回は第4回、五項目目について検証していきたいと思います。

式内社調査報告書によると、

第五にA(本社)に真貞社が祀られている他、その伝承史料が確たることなどが挙げられよう。
ついでにA(本社)が甲斐国一の宮たることも、「一の宮」と証する史料としても、Aに関連する末木村長昌寺所蔵大般若経の明応年中の奥書、同社所蔵弘治三年武田晴信条目が古く、他はこれに及ばず、これよりもB(河口)が甲斐国一の宮とみえず、Cは市川郷の一の宮であり、甲斐国一の宮でないこと明らかである。以上よりAを式内社として以下みて行きたい。

とあります。

浅間神社正史の中で著者は、河口に残るミハカのことや、甲斐国史の中の郡家川口にあり。という記事を使い反証している。

今回は近年発見された史実等がないので、浅間神社正史や他の文献、古絵図などで検証していきたいと思います。

簡単な解説をしますと、御墓(ミハカ)とは、読んで字のごとく 'おはか’のことで、三代実録にある貞観の噴火を鎮める為勅使によって、甲斐国ではじめて富士山鎮火の社を建て、祭り事をした擬大領伴真貞初代の祝(ハフリ)の お墓だと伝えられています。
ミハカは、いつの頃からか代々の河口浅間神社の宮司が管理し、登記上でも、ただの墓地ではなく特別に墳墓と記され、伴真貞の存在を臭わせています。また古文書から読み取ると、当時は広大な境内でその一角にあったそうですし、なぜか富士山や河口地区を一望できる特別な小高い場所に建てられています。
私見ですがミハカから、河口浅間神社本殿を介して富士山山頂がほぼ真っ正面になるのも不思議ですね。何かの結界でしょうか?

まず式内社調査報告書から、真貞社についてです。現在調査中なので、はっきりしたことは言えないのですが、明治36年浅間神社之景という河口浅間神社の図には、擬大領霊社が描かれていますし、ミハカといわれる初代祝のお墓といわれる墳墓も伝えられています。しかし、今のところこれに関わる根拠は見つけることが出来ません。
一方、現在の一宮にも伴真貞が祀られていますが、やはり根拠は見つけられず、お墓の存在も確認できていないのが現状です。

また、甲斐国史の中の郡家川口にあり。の記事について著者は、当時八代郡家が河口にあったのではないかとして、昭和30年頃枯れてしまった河口の大檜(当時国の天然記念物)跡に領主代々の屋敷があったとした上で、大檜は、七本杉同様、河口浅間神社創設された時期と等しい樹齢だったとし、郡家跡だとしています。
これは領主すなわち、初代祝擬大領伴真貞の屋敷であったとして、伴真貞の存在を肯定させていますが、物証が乏しく、立証の手がかりとしては押しが弱いですね。
一つ補足をすると河口の場合、擬の大領とされているので、大領とは違い支所的な郡家であったのではないかと思います。御坂山系を隔てて多くの八代郡の存在が確認されていますので、どうしても支所的な官舎が必要で、それが河口にあったのであろうと言う訳です。
やはり、本社の方も郡境、郡家については前々回にもお話しした通り、伴真貞の存在の肯定や、真貞社の由緒あるいは物証に関して不明瞭な点が多いので、どっこいどっこいでしょうか?

式内社調査報告書、ついでに云々 に関して河口浅間神社は、創設以来1606年の大火で、村の大部分と拝殿、本殿全焼によって、それ以前の古文書の焼失してしまいました。しかし、河口浅間神社参道の杉(樹齢850年程)から推測するのに鎌倉時代にはすでに神社境内のかたちが出来上がっていたとの想像は難しくないですから、御師の屋敷や神社に残る古文書さえ焼失しなければ、著者も立証に手間取らなかったでしょう。それこそ、これでもか!というぐらいの史料はあった筈です。
妙法寺記によれば、その後も本殿は燃えないまでも、村の大半を焼失する大火に数回は見舞われているので、村内で古文書の発見は絶望的、現に1600年以前の史料は数える程です。

総括すると、古文書が確実に残されている一の宮本社の方が、断然優位ですね。まさに報告書の通りです。
しかし、今回は両者とも立証の材料が少なく、本社に真貞社が祀られていることについては、河口同様何の根拠もないわけで、今後の展開や発見如何によっては、断然河口浅間神社の方が材料が多いのではないかと思います。
さらに、一の宮と残されている古文書の記載に関しては、裏を返せば河口浅間神社に関わる一の宮と書かれた古文書もあると言っているような物ですから、本社のそれより旧い年代の物が出てくれば、十分すぎる程の物証になるでしょう。
先ほども話したとおり、鎌倉時代にはすでに現在の参道は確立されています。その当時七本杉はやがて樹齢400年近くに育っていたはずですし、現在の神社境内より広く、その威厳は相当のものであったろうと思います。報告書に書かれている明応年中の末木村長昌寺所蔵大般若経は西暦で言うと、1492年からですからざっと見積もってもそれより250年〜300年後の古文書になるのです。焼失がなければ、裕に数百年前の古文書が残されていたでしょう、創設時の史料何かもあったのでしょうね。多分、、。

今後は、残された古文書の中から関係各所を洗い出し、実史の解明をしていきたいですね。

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2012年12月27日09時02分


外川真介

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浅間神社正史第三回目

さて、今日も上の坊日記(ブログ)の過去ログから

浅間神社正史第三回





Mon.12.13.2010
浅間神社正史第三回
さて今回は第三回。
第四項について検証していこうと思います。

式内社調査報告書によると、

第四に甲斐国唯一の名神大社が国府をあまりにも離れた場、また考古学的にみて文化程度の低い地に存在するとはみられないこと。

とあります。


非常に書きづらいですが、正直この項には頭に来ました。前半はともかく、後半のくだりは客観的にもひどい言い方ですね。
確かに私が育った時代は、それこそまんが日本昔話に毛が生えたぐらいのど田舎でしたので、報告書の通りかもしれません。
しかし、千年来の富士山信仰や物資流通の拠点であった往時を偲ぶ史跡は村の所々に朽ちかけた状態でも残っているのです。
それを、何の検証もせずに文化程度が低いなどと、よく言い切ったと逆に感心すらしますね。
そもそも当時とのこの強烈なギャップこそ、私を郷土史の世界に引きずり込んだ原因で、しかもちっぽけな歴史ではなく、国史をも揺るがす可能性を持ち合わせているのですから、なおのことです。

できる限り、冷静に分析してお話していますが、この項だけは毎回読むたびに怒ってしまいます。著者も相当怒っていたようです。


さて気を取り直して本題にうつります。
著者は、河口地区内に残る史跡や、また当時を伝える文献などを用いて反証している。
私も近年発見された記事などを使って分析していこうと思います。

つい先日(11/27読売新聞)国史はもちろん山梨県下でも重要な新発見がありました。
河口西川遺跡、住宅建設に伴う事前の発掘調査により、製塩土器なる物が奈良〜平安時代の地層から出土したというもので、所謂塩の道に関わる物証でした。
製塩土器とは、文字通り塩を作るための器で、素焼きのコップみたいな物に海水を汲みあげ、天日に干すか、火に掛けて水分を蒸発させて塩を精製したものを、器のまま運んだのではないかと推定されています。
この出土は、奈良〜平安時代に当時では貴重な塩を、中継、消費、加工などをしていた可能性をおおいに含み、すでに河口が、鎌倉街道の前進である街道の駅(うまや)として機能していたという裏付けの他、街道の重要度や当時の生活水準の高さをを伺い知ることができる好資料です。海のない河口に運ばれた塩は保存食の調理や、祭壇へのお供えの他、駅馬に欠かせない栄養源として与えられていたのでしょう。
また、昨年下水道工事の際、やはり同年代の地層から出土した須恵器には、「川」の文字がはっきり記されており、奈良〜平安時代には河口の存在を確実にし、しかも文字を読み書きする事ができる要人の存在を浮き彫りにしています。これと合わせて片面が墨で真っ黒になった器が出土したことによって、日常的に文字を書いていたこと、すなわち、宛先や荷主など記載や継ぎ荷の札や帳面など書かれていたとを決定づけています。
この経路によって文字や文化、産業の流入もあったであろうとの推測も容易にさせますね。
ちょっと時代が進みますが、御坂峠を越えた御坂町には、鎌倉建長寺末の古刹が多いことも面白い物証で、古来より御師の村であった河口には受け入れられず、一山越えて浸透していったのでしょう、鎌倉時代にはすでに宗教観みたいな物がしっかりと確立しているのですから、なかなかですよね。



一方、本社周辺はどうでしょう?

前回も書きましたが、確かに国分寺、国府あるいは国衙には近いですね。河口浅間神社は富士山を一望できること以外では、この立地では到底かないません。
しかし、若彦路や鎌倉街道の前進しか官道のない奈良〜平安時代に国府あるいは国衙より(各おおよそ五キロほど)離れた本社は河口とは言わないまでも不便であったろうと思います。また仮に当時平安京クラスの大都会(5キロ四方)でもなければ、国府あるいは国衙の中心からは著しく離れている遠隔地であって、さらには、現在面している甲州街道は何百年後の江戸時代に整備されているわけですから、本社までの動線を想像するのは難しいですし、このような立地では、他村とひどく変わったの文化程度ではなかったでしょう。
一番近くにある国分寺でさえ、本社変遷の約100年前に創建されているのですから、国分寺がそれまで機能していたかも不明瞭です。せめて本社創設当時の文化程度を示す、国衙や国府、国分寺との関係性ぐらいは説明があってよいのではないのでしょうか?
また、一国の中心に近いというだけで、他の地を考古学的に文化程度云々とまで言い切るのであったら、それなりの根拠をもっているであろうと、ネット環境でいろいろと調べてみましたが、華々しい文化程度を物語る史料は見つかりませんでした。


平安時代に書かれた三代実録の中には、河口海と書かれています。
おそらく朝廷の要人も河口を通過、利用したでしょう。
甲斐の真ん中の宿駅河口が当時近隣の一大拠点であって、その村の近くに湖があったので、河口湖と名が付いたなんて仮想が成り立ちませんか?
(参考までに古来文献では河口は、川口、河口と二通りの書かれ方が存在します)
また、仮に、奈良時代に河口がなかったとします。平安時代には河口に浅間神社が祀られ御師が発生し、西暦1800年頃の最盛期にはその数を140坊にまでに増やし、全国から道者が押し寄せ、御師の街、甲斐の宿駅として衰退までの約1000年間、甲斐国富士山信仰や、物資流通の拠点であった村が、はたしてそんなに文化程度が低いのでしょうか?
たまたま一国の要衝に近かっただけである村とは、さほどの文化程度の差はなかったのではないかと思うのですが、、。

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2012年12月21日17時48分


外川真介

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浅間神社正史第二回目

上の坊日記(ブログ)より





Sat.12.04.2010
浅間神社正史第二回
さて今回は第二、三項について検証していきたいと思います。


式内社調査報告書によると、

第二に考古学的にみて、このA(本社)付近條里制より特別地域、重要な地とみられていたこと、つまり国府に近い地とみられることより大社の存在の可能性大なることが挙げられる。

第三に「特選神名牒」の三代実録解釈の如く、一旦社を建てたが神意に叶わず改めて建立と見るのではなく、神意猶落ち着かず遣使改めてみて落ち着いたとみると、その郡家の南でよく、それ中尾正祝屋敷などと云われる郡家と見られる地の南とみてよいこと。

とされています。


現在本社は、式内社調査報告書の通り、国分寺跡あるいは国衙跡(国府)のもっとも近くにあり、律令制のもと官舎の近くで祭事を執り行っていたであろうとの推測も十分頷ける立地条件です。
確かに、はるばる御坂の峠を越えて河口浅間神社では、不便すぎますし、現代の様にマイクロバスに乗って、神官様ご一行様ブ〜ンてな訳にはいきませんしね。
ですから、第三項の様に国府の近くに改めて建立されたのが一宮という解釈が浮上し、またそれが論点になっています。その論争の要素は三つ。

1.八代郡に祀られた神社が式内社であるとする説。
2.直後に建替えられた神社が式内社であるとする説。
3.山梨郡に建てられた神社が式内社とする説。

筆者は著書の中で、三代実録の中の郡家の南に建立の記事や当時の郡の変遷史料を用いて反証している。

私も地図を眺めながら国衙や国分寺、一宮町中尾の位置関係を確認しつつ記事を読み始めたところ、
やはり筆者の反証の通り説明不足ではないかな?と感じました。
まず本社の位置が、国衙や国分寺より離れた(最大で五キロほど)畑の真ん中にあること、また正祝屋敷は当時山梨郡であったということ、当時の八代郡家とされている地より視るとむしろ北東、もしくは北の方角にあることで、しかも全く富士山が見える場所ではないのです。
さらに、「特選神名牒」の三代実録解釈の如く、一旦社を建てたが神意に叶わず改めて建立と見るのではなく、神意猶落ち着かず遣使改めてみて落ち着いたとみる というのも、いまいち納得できません。仮に報告書の通りであっても、最初に建てた官社はどうなっちゃったの?なんて疑問を残しますよね。

確かに第二項の通り、一国の要衝にもっとも近く祭殿としては抜群の立地条件です。
これを言われては他の論社は手も足もでませんね。
しかし第三項の報告はどうでしょう?

本社の御由緒では

第十一代 垂仁天皇八年(約2千年前)正月始めて神山の麓にお祀りされた。今ここを山宮神社と称して摂社となっている。第五十六代 清和天皇の貞観7年富士山大噴火の翌年(865年)12月9日、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を現在地にお遷ししてお祀りされている。甲斐国一宮であって延喜の制に於ける明神大社である。明治四年五月十四日国幣中社に列格。

とあるとおり木花開耶姫命が変遷されています。

三代実録には、富士山が噴火し甲斐国側の祀りの為、まず八代郡家南に最初の浅間神社が建てられ、噴火が鎮まらないので、約二週間後に山梨郡に八代郡と同等の社を建てた。という記事では十分検証する余地が残っているのではないかと思います。
多くの文献で現在の本社地は当時山梨郡であったとされていますし、明らかに山梨郡に八代郡と同等の社を建てた。と三代実録には書かれているからです。
また、私が考える本社の見解は、二度目にあたる社、つまり山梨郡の社であるとしているのではないかと思います。なので、前回書いた第一項の報告書の通り本社(一宮浅間神社)鎮座地が式制定当時山梨郡たることを証する史料もない。として八代郡であった可能性を残しつつ、祝屋敷などと云われる郡家と見られる地の南と付け加え、二度目に建てられた(変遷)社こそ式内社としているのではないでしょうか?

仮に八代郡に建てられた第一社が河口浅間神社であるとすれば、山梨郡に建てられた神社が第二社である事は間違いないです。しかし神意にかなわず改めて建てた第二社が一宮であるとしたら、延喜式神名帳には八代郡にある社こそが名神大と書かれている社はどこの社になるのでしょうか?また、本社が八代郡に建てられた社であれば、山梨郡に建てられた第二社はどこにあるのでしょうか?
本社からの山梨郡の社についての見解は見つけられませんでした。

わずか十数日で二番目の官社の建造も難しいでしょう、また、わずか十数日間噴火が静まるかどうかを見守る事が出来なかったのか?この再建の短期間に何があったかは想像もできませんが、利便性を考えて、ある神社を変遷するのが一番手っ取り早い方法だったのかもしれませんね。
だとしたら、
甲斐国に始めてできた八代郡の社が河口浅間神社で、その後の山梨郡御神社が本社である。
なんて、仮想は成り立ちませんか?
ここで争点のおさらいです。

1.八代郡に祀られた神社が式内社であるとする説。
2.直後に建替えられた神社が式内社であるとする説。
3.山梨郡に建てられた神社が式内社とする説。

河口浅間神社は1.を、本社(一宮浅間神社)は、2.3を主張しているのです。


貞観の噴火から数十年後の延喜年間に、勅使によって手植えさられた河口浅間神社境内の七本杉は何のためだったのでしょうか?
私には神力のなかった神社の境内に勅使がわざわざ出向き、手植えをするとは思えません。

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2012年12月18日22時02分


外川真介

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上の坊(ブログ)から

すみません、、、

現在新年に向けてあることを仕込み中
上手に運べば年内中、そうでなくとも新春企画で新聞各社紙面を賑わすかもしれません。
っでその前に北口富士山信仰についてちょっと

以下私が代表をさせていただいている上の坊project
上の坊日記(ブログ)の過去ログ抜粋です。





Thu.12.02.2010
浅間神社正史第一回
12月ですね。本当に寒くなりました。
最低気温は氷点を下回り、寝ぼけ眼であけるカーテンの外はカッチカチになっています。
いよいよ長ーい冬ですね。
本業の忙しさにおわれて更新をサボってしまいましたが、今回から五回にわたって昭和58年発行の浅間神社正史「創立関係編」をもとに甲斐一宮論争について話していこうと思います。

この本は地元の神官が約20年前に長年の研究と蘊蓄をフル活用して、式内社選定について疑問を投げかける内容です。読めば読むほどに、河口浅間神社はまさか!?と思わせてくれる一冊なのです。
いわゆる論社である河口浅間神社ではありますが、一般的な論社のなかにおいては、相当の強敵の部類に入るのではないかと思っています。
ひょっとしたら,今後の上の坊projectの方向性を決めるかもしれませんね。


ここでまず、式内社調査報告書より甲斐一宮論争の考証五項目を原文より

第一に都留郡河口湖町が式制定当時八代郡たる確たる証拠もなく、また本社(一宮浅間神社)鎮座地が式制定当時山梨郡たることを証する史料もない。よって本社を八代郡に当時より鎮座として差し支えない。

第二に考古学的にみて、このA(本社)付近條里制より特別地域、重要な地とみられていたこと、つまり国府に近い地とみられることより大社の存在の可能性大なることが挙げられる。

第三に「特選神名牒」の三代実録解釈の如く、一旦社を建てたが神意にに叶わず改めて建立と見るのではなく、神意猶落ち着かず遣使改めてみて落ち着いたとみると、その郡家の南でよく、それ中尾正祝屋敷などと云われる郡家と見られる地の南とみてよいこと。

第四に甲斐国唯一の名神大社が国府をあまりにも離れた場、また考古学的にみて文化程度の低い地に存在するとはみられないこと。

第五にA(本社)に真貞社が祀られている他、その伝承 史料が確たることなどが挙げられよう。
ついでにA(本社)が甲斐国一の宮たることも、「一の宮」と証する史料としても、
Aに関連する末木村長昌寺所蔵大般若経の明応年中の奥書、同社所蔵弘治三年武田晴信条目が古く、他はこれに及ばず、これよりもB(河口)が甲斐国一の宮とみえず、Cは市川郷の一の宮であり、甲斐国一の宮でないこと明らかである。以上よりAを式内社として以下みて行きたい。

だそうです。


さて、浅間神社正史「創立関係編」を使いながら検証していきます。

今回は第一項八代郡についてです。
論争は三代実録にある記事 甲斐国の八代郡家以南に官社を建てたという記事から始まります。
調査報告書では、都留郡河口湖町が式制定当時八代郡たる確たる証拠もなく、云々とあります。

現在、南都留郡に属する富士河口湖町。確かに御坂山系を隔てて八代郡であったとは考えにくいです。また八代郡境は、歴史を調査研究されている方たちの間でも争点のひとつとされ、これに特化して研究されている方もいるほどで、非常に難しい問題です。

浅間神社正史の中で著者は、大日本史などの6冊の古文献の記事では、すべて河口浅間神社が甲斐国一の宮だと書かれているとした上で、現富士吉田市新倉地区渡辺家に伝わる古絵図の郡境の記載、神社社宝や仏像の銘からも甲州八代郡河口村と確認できる物が河口村内に遺されていると反証している。

浅はかながら私もその内のいくつかを確認してみましたが、やはり河口が当時八代郡であったとしか思えない物ばかりでした。
さらに、三代実録の中でもセの海(現河口湖町西湖、精進湖、本栖湖)は、はっきり八代郡であったと記載されているし、先日やはり町の処分場で拾った浅間町の民話(富士吉田市新倉浅間町自治会発行)の中で、富士浅間神社の御由緒でも慶雲三年甲斐国八代郡荒倉郷とはっきり書かれているのです。
土地勘のない方に補足すると、富士山からみて御坂山系の南麓は八代郡であったという訳です。もっと言うと貞観の噴火(864)の前の大噴火、延暦19年(800)当時は、セの海から新倉あたりまで大田川という川があったそうで、この北岸までが八代郡であったと云う仮説が成り立ちます。このころすでに河口は甲斐国の駅として存在していますし、ほとんど似かよった地形で、セの海から新倉のちょうど真ん中の河口だけ、都留郡であったとは考えにくいですね。

一方本社(現一宮浅間神社)は、いろいろな文献で当時八代郡ではなく隣の山梨郡であったとされていますが、報告書では式制定当時山梨郡たることを証する史料もない。と書かれている。
敢えて揚げ足をとるなら、式制定当時八代郡たることを証する史料もない訳で、本社を八代郡に当時より鎮座として差し支えないと言い切れるものかと疑問に思うところですね。

報告書の第三項の時に改めて書きますが、三代実録に富士山が噴火し甲斐国側の祀りの為、まず八代郡家南に最初の浅間神社が建てられ、噴火が鎮まらないので、約二週間後に山梨郡に八代郡と同等の社を建てた。とある

皆さまはどう思いますか?

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2012年12月4日00時13分


外川真介

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ちょっと早いですが、、、

いよいよ今年もひと月を切りました。

ちょっと早いですが、皆さま初詣はどちらへお出かけになりますか?
そんなの決まってる! 毎年ここ! 
なんて方が多いと思います。新年の初詣は趣向を変えて河口浅間神社へいらしてはいかがでしょう?

そんな神社知らないね。 って言う方に簡単に


河口浅間神社は、865年勅使で甲斐国にはじめて祀られた浅間(あさま)神社で、甲斐国浅間神社の総本山、元々は甲斐国一の宮であって北口の本宮。諸々の事情で現在では県社に降格してしまいましたが、富士山文化遺産登録の構成資産ににも登録されています。
また、境内には創建以来の樹齢1200年近いの大杉が七本。一本二本の大樹があるのはよく耳にしますが、七本が並んで聳え立っているの所は国内はまずありません。
*根回り30メートルの大杉は圧巻です。

そんなの決まってる! 毎年ここ! 
って方にお願いします。

話の種、一度だけでもかまいませんので河口浅間神社へいらしてみてください。

平安時代、富士山の噴火を鎮める為に甲斐国にはじめて建てられた浅間神社である事、そして純粋に富士山を祀る為に建てられた神社である事を感じていただけると思います。

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2012年11月2日23時05分


外川真介

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はじめまして!

はじめまして!

この度、富士五湖tvさまに特派員として機会をいただきました、上の坊プロジェクトの外川と申します。

不勉強ながら富士河口湖町 ’河口’ においてのんびりとマニアックに紹介していきたいと思っておりますが、暖かく見守っていただけると幸いです。

以降、不定期で更新してまいりますが何卒お付き合いいただきたくよろしくお願いいたします。

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UTMF

富士山北口本宮って富士吉田でしょって皆さま

うっかりしてました、、。

久しぶりの投稿です、、、汗

あけましておめでとうございます。

浅間神社正史第三回目

浅間神社正史第二回目

上の坊(ブログ)から

ちょっと早いですが、、、

はじめまして!

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外川真介


 
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