富士五湖TV 神奈川沖浪裏(冨嶽三十六景)の解説
葛飾北斎の富士山の場所を特定する謎解き
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「凱風快晴」の立体模型を考察した位置情報を用い、現在の地形データで再現しました。

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神奈川沖浪裏 冨嶽三十六景(1831年出版)より
 富士山を描いた葛飾北斎の冨嶽三十六景の中でも人気の高い「神奈川沖浪裏」。これはタイトル通りだとすると、横浜市神奈川沖となります(神奈川県の意味ではない)。この画の面白さは描いた場所ではなく見せ方にあると思います。

 その前に視点の特定を行いたいと思います。横浜市神奈川は現在の本牧あたりになり、富士山の形状を見てもほぼ間違いはありません。しかし、富士山の位置があまりに遠く、左右方向の特定は数百メートル単位での特定は難しいので大雑把に範囲を限定することから考察を始めたいと思います。

「神奈川沖浪裏」の詳細はwikiで

 まず注目したいのは富士山に残る雪の形状で、これをGoogleEarthと比較するためにグリッドを設けて検証します。富士山との実寸比は縦方向に2倍です。
 
 
金沢八景付近   神奈川〜本牧付近
 検証作業は微妙なのですが、上図左(金沢八景沖)の雪の形状と右(本牧沖)を見比べると本牧沖の雪の形状がグリッド単位でぴったり一致します。つまり、この画はタイトル通り、神奈川〜本牧沖の視点上で描いたことが分かりますが、北斎のスケッチの正確性も堪能してください。また、別の北斎画による1803年出版「賀奈川沖本杢之図」を見れば分かりますが、当時の本牧付近は埋め立てが行われておらず、岬が海まで迫っていたことを考慮します。つまり、遠浅の神奈川沖の船上の視点が候補の一つとして挙げられ、現在でいうと横浜ベイブリッジ〜大黒ふ頭沖が相当します。


富士五湖TV投稿画像(うみぼうづ様)よりベイブリッジから

 さらに北斎は1806年、木更津方面へ旅に出たことが知られており、(私の考証では館山市に近い場所ですが)冨嶽三十六景「上総ノ海路」という作品を残しています。ちなみに歌川広重も北斎の痕跡をたどり木更津を訪問したことが日記に記されていて、この日海が荒れて船に乗れなかったことが書かれています。


賀奈川沖本杢之図(1803年出版)

上総ノ海路(1806年出版)

 富士山の視点について横方向の特定は富士山と大黒ふ頭を結ぶ線上と容易にできるのですが、縦方向の特定は難しくなります。先に示した通り、「神奈川沖浪裏」はタイトル通りなら神奈川沖、現在の横浜港付近となりますがGoogleEarthで詳細を調べると以下のことが分かります。

横浜港の湾を出た大黒ふ頭沖付近では富士山の高さが足りず下まで見えていませんし、船を重ねると右の山が飛び出てしまいます。

東京湾アクアラインの海ほたるに移した付近でやっと富士山の高さが足りてきて右の山が船で隠れるようになりました。

木更津アクアライン料金所付近で「神奈川沖浪裏」の光景に近い状態になることが確認できます。しかも、船と船上人で右の山の頂がピッタリぎりぎり隠れることから、北斎ならやりかねないピンポイントでこの場所付近が「神奈川沖浪裏」視点かもしれません。ちなみに本説は概知の説でもあります。
さらに言及すると、船上構図の多い北斎のことですから、本牧大黒ふ頭〜木更津の航路上で描いたのかもしれません。
 またこの付近には、日蓮所縁の光明寺や北斎が奉納した絵馬「板絵著色富士の巻狩図絵馬(画狂人)」もあります。
 GoogleEarthで北斎の画を検証してみた結果、北斎は巧妙に富士山周辺の山が船で隠れるように意図していることが分かり非常に興味深いです。 北斎は富士山を単独で存在するよう際立たせるため船を配置したと思われますが、あくまで写実的な姿勢を崩したくなかったという思いが北斎の人間像を想像させます。

従って私の視点の解釈では、富士山と大黒ふ頭を結ぶ線上で海ホタル付近からアクアライン料金所のある木更津沖の船上で描いたと結論付けたいと思います。ただし木更津説は概知、海路上は概知かもしれませんので、私が最初に視点を特定したわけではありませんが、概知の説を補強しておきます。
GoogleEarthによる横浜市本牧延長線上考察
(千葉県木更津周辺)
千葉県木更津周辺

 次に「神奈川沖浪裏」の構図を考察してみたいと思います。私はこの画の見方には4点の注目点があると思っています。

 まず最初に、北斎が波の表現に心血を注いだ痕跡があることです。北斎は堀之内(東京杉並区)の日蓮宗妙法寺にある通称「波の伊八」の彫刻に触れていて、伊八に関心を抱いていました。ちなみに伊八の取り組んだ波の有名な彫は千葉県明王山飯縄寺(40代半ばの作品)、東頭山行元寺(50代後半の作品)にあり、その原風景は千葉県房総の大東岬から見た波であると言われ、北斎も確認のためか南総の旅に出ています。このことから一説には「神奈川沖浪裏」の浪の部分は外房の波だと唱える人もいます。ちなみに伊八のその他彫りは千葉県内に40以上確認されています。
 北斎が波を描いた作品は有名なところで3点あり、先に触れた「賀奈川沖本杢之図(1803年出版)」をはじめ、「おしおくりはとうつうせんのづ(1805年出版)」、「冨嶽百景二編 海上の不二(1834年出版)」を見てみたいと思います。


賀奈川沖本杢之図(1803年出版)

おしおくりはとうつうせんのづ(1805年出版)
← 波を反転させたりして試行錯誤している様も見て取れる →
 
冨嶽百景二編 海上の不二(1834年出版)

 いかがでしょうか?北斎が波の表現にこだわった痕跡が見えます。特に最後の「冨嶽百景二編9丁」では「神奈川沖浪裏」の片鱗が見え、完成に近いと思われます。特に面白いのは、波のしぶきが千鳥へと変化し富士山に向かって飛んでいる場面です。これは「神奈川沖浪裏」の中でも踏襲されていて非常に興味深いです。
  北斎の波の表現で良く言われることに「カメラの無い時代に千分の一秒を切り取った観察力」という荒唐無稽な論理がまかり通っていますが「そんなわけ無い」ですね。北斎を超人化する気持ちは良くわかりますが、ここでは先人の波の表現を踏襲した結果と見るべきでしょう。
確かに北斎はサヴァンの要素が顔を覗かせます。そのことは他項でも触れていますので言わずもがなですが、それだけでは単なる写生に終わってしまいます。
先人の波の表現とは「どのように描いたら実際の波より迫力が出るのだろう?」という試行錯誤の歴史です。結局のところ「高速シャッターで切り取った画像と良く一致させて描くことが正解だった」ということです。波の高さにしても北斎の芸術と遊びの融合の結果というのが正解でしょう。
現在の漫画家も同じ表現をしていますし、表現手段とはそういうものであるはずです。従って北斎は数十年かけて波の表現を模索し続けた結果として「神奈川沖浪裏」があると考えるべきでしょう。つまり、「シャッターの目」とか「望遠鏡で覗いて描いた」という現実描写主義に固執すると北斎の作家としてのスケール感が無くなるような気もします。そして、北斎は良く船に乗っていたのでしょう。船釣りを経験した人なら「ちょっとした波でも船より高いと感じることがある」と分かると思います。実際、船に乗らなければあのように波を感じることはありません。
 写真や西洋画は輪郭がありません。しかし、私たち日本人には当たり前すぎて不思議に思いませんが、日本人は輪郭画なのです。古くは「鳥獣戯画」に始まり、近年の手塚治虫を経て世界有数の漫画大国日本。そして、「神奈川沖浪裏」の波が輪郭線の漫画的表現で描かれていることにもっと注目してください。波頭の一つ一つを輪郭線を入れて表現していることは「シャッターの目」などという陳腐な言葉の更に先を行っているということに私たち日本人は気が付かなければいけません。

小布施に伝わる北斎晩年の波の画
 波の表現に当時の人が互いに影響し合って北斎は苦心の果て、波の伊八の波をカッコイイと考え採用し、おそらく彼も実際に荒ぶる波を見に行って会得したのでしょう。何でもかんでも北斎の偉業にすることはかえって北斎に失礼であり本人には迷惑なことです。
もし、小布施に伝わる波の画が北斎の描いたものだとすると、北斎の生涯を通して得た波の集大成が波頭の鍵状であり当時の波の表現の到達点でもあるのです。従って根拠のない「浪裏の波の色遣いはカツオの縞模様」とか「浪裏の波は三角派」とか「シャッターでなければ見ることのできないシャッターの目」等の北斎スーパーマン説は現在に住む我々の妄想の産物だと認識したほうがよさそうです。
 北斎の波の表現を「マンガで良く出てくる骨付の肉を現実に再現して、ほら実際にこれを見て描いたんだよ」と言えないのと一緒のレベルだと感じます。
もう一度北斎の初期の波の表現を見てください。これを見てもまだシャッターの目を持っていたと言えますか?

コラム:波の伊八を求めて
 波の伊八の本物の彫刻を見たくて千葉県いすみ市を訪問した。室内の欄間に伊八の彫があるのは天台宗寺院行元寺。本堂欄間に伊八の彫があるのは飯縄寺、中でも伊八の最高傑作と言われている牛若丸と天狗は見事である。
←牛若丸と天狗
北斎の波を彷彿させる彫刻は以下。

いかがであろうか?波の表現は北斎の波の表現と一緒に思える。ただし、こちらの彫のほうが北斎の作品より数十年早く作成されている。また同じ場所には3代目堤等琳の描いた天井画がある。

3代目堤等琳は北斎と同時代の人だが、北斎よりやや先輩にあたる。互いに良きライバル関係だったことは各種資料に詳しい(wiki)
飯縄寺の住職と長話をした後、伊八も北斎も見たであろう太平洋の波を見るために近くの太東岬の波を見に行った。

おだやかな日の太平洋の波だが伊八と北斎の波を彷彿させる波がそこにはあった。北斎が参考に見た波はどんなであったのだろうか?
 
 
 次に全体的な構図が挙げられます。
おおまかな構図として、1/3分割を採用しており画に安定感と注目点を与えています。基本的なことですが1/3分割するとそのグリッドの交点に視線が集まり、実際に北斎も北斎漫画3編(1878年)の中で考察をしています。
ちなみに私はこの図を西洋で言う遠近法の解説だとは思っていません。北斎は舞台装置の中に遠近法的に物体を配置する想定の解説だと思います。本項は北斎の画の描き方に深く関与するので別項にて解説します。

また、円と直線で構図を決めるさまも解説してあり、さながら現在の「マンガの描き方」を見ているようです。

 さて、「神奈川沖浪裏」を改めて見てみましょう(補助線は視線誘導の説明のために入れてあります)。
左下1/3の位置に富士山を置き、更に波の向かう場所も富士山に集まることによって自然に小さな富士山「1」に視線を集めます。次に富士山の対角にある大きな波「2」に視線が移動し、富士山と波の緊張感が生まれます。もちろん、「1」と「2」の順番が逆でもその効果は変わりません。そしてその後、人によって違いますが、「3」「4」と細部を見ていき、最後に「5」の空間を観察するように視線を誘導しています。
最後はタイトルに目をやり「神奈川沖浪裏」だと知り、「おいおい、あそこはこんなに波が高いのかい?」となるのでしょうか?実際に画のような波が立つ日に船を出すようなことは無いでしょうが、もしかすると先に記した通り、北斎が船に乗った日は多少波が高く、怖い思いをしたのかもしれませんね。 


 3番目に画の中に対象物を隠し、深層心理の中にイメージを埋め込む作業をしています。いわゆるサブリミナル効果と呼ばれるもので、現在ならフィルムの1コマに映されている動画と違う画を入れ込み深層心理を操るテクニックです。例えば飲料水のコマーシャルの1コマに「灼熱の浜辺」の画像を紛れ込ますと入れ込んだ画像は目に見えませんが何故かのどが渇く現象が起こります(現在はコマーシャルのサブリミナル効果は禁止されています)。

 北斎は「神奈川沖浪裏」の中に富士山のシルエットを意図的に複数入れ込んでいます。それは、「凱風快晴」のスケッチを行った場所の富士山に他なりません。ここから見た富士山は右に宝永火口が張り出したいかり肩の特徴的な富士山の形状をしています。
そして、この形状の富士山を回転させたりしてジグソーパズルのように画の中にはめ込んでいます。以下に主な富士山を抜き出してみましたが、富士山宝永火口をあまり描きたがらない北斎が宝永火口の出っ張りをこれでもかと入れ込んでいることが面白いと感じました。

 ちなみに、波の中に富士山を隠す構図は「冨嶽百景二編 容裔不二(うねりふじ)」の中に見られます。またこの画には「神奈川沖浪裏」にある押送船もあります。

波の富士山は「凱風快晴」の富士山スケッチ位置のシルエットを多数使用

 どうでしょう、富士山の稜線が波の形状と寸分違わず一致していませんか?ここまでされると北斎が「画狂老人」と名のったこともうなずけます。もっと色々な場所に富士山が見えてきた人は北斎のマジックにハマってきました。きっと江戸時代の人もこうやってこの画を楽しんだに違いありません。
また「神奈川沖浪裏」は富士山を隠しているだけではなく、富士に雪を降らせ、波しぶきを千鳥に変えることまで意図していることが分かりましたか?これは北斎の別の作品(本項上部)にある冨嶽百景二編9丁「海上の不二」にははっきりと描かれています。
 良く北斎は「神奈川沖浪裏」を描くのにあたり黄金比を屈指したと言われていますが、そもそも富士山が黄金比(1:1.6〜1:root2)を持つ稀有な山であり、だからこそ美しいと感じるわけです。科学的な検証では溶岩の持つ性質と円錐状に積み上げるバランスが絶妙だそうで、(どちらが先かは別として)自然物の美しさを数式にした値が良く当てはまります。よって北斎の画も富士山をモチーフにする以上、その数式が出現するのは当然です。ただし、その美しさに気が付いたという点ではさすがと言わざるを得ません。もちろん、富士山を誇張して描くことが更に際立たせている点も見逃せないと思います。特に「神奈川沖浪裏」は波の中に富士山を隠しているわけですから様々な数式が出現することは当然と言えると思います。

 そしてここからが重要ですが、ここまでの3点は以下に記述する最後のポイントを効果的に行う仕掛けの舞台装置に過ぎないのです。


 いよいよ最後の4点目として、この画の持つ最大の特徴を説明する準備ができました。

それは、「この画は一枚の画の中に5コマの時間経緯が描かれている」ということです。

 まず、波の効果を富士山のせり上がりと連動させて、同時に視線の運びをコマの進行とリンクさせることで止まっている波が動き出す効果を狙っています。そして、船に乗っている人が3艘とも同じようなポーズをとっていることから、この船は一艘を三分割していると想像できます。

 つまり、画の下部にある船が波に向かっていき、左の船のように波に乗り上げます。そして最後に巨大な波が覆いかぶさる様を表現し、それからまた画の下部に移り動作をグルグル繰り返します。同時に波しぶきは富士山へ雪を降らせ、波頭は千鳥となって空に飛んでいきます。それらが富士山というモチーフで深層心理にまとめられ、この画の中に見る人を引き込んでいきます。

 「何故かダイナミックな画」という印象は構図もさることながら、動きを感じることによって生み出される計算された効果なのかもしれません(北斎の画は動かしたくなる作品が多く、実際にアニメのコマ送りのような画も多くあります)。まさに名画というのに値する作品であります。

なお、このアニメ表現は波の形状表現とは異なり、あくまで表現の可能性を検証するものであり、ミスリードを誘発させることを意図していないことに注意していただきたいと思います。


それでは北斎の仕掛けを堪能しましょう
以下、動画です

北斎さん、「神奈川沖浪裏」は様々な相似形とコマ送りのダイナミックな画ですね

コラム:鬼滅の刃
 さて2020年現在、鬼滅の刃の漫画とアニメが話題となっている。
特に本作品のアニメーションの表現方法は海外でも話題となっており「ジャパニメーション」の表現方法に海外のアニメファンも度肝を抜いていることは周知の事だと思います。
ここではそのアニメ表現の中から「水の表現」に注目したいと思います。

←「鬼滅の刃DVDより」-これが現在の波の表現の到達点だ。

いかがでしょうか?
北斎の水の表現を踏襲し動かすさまは日本文化の延長線上にあり、時代を超えて新たな感動を国内外に発信したと言えます。それは北斎の画に初めて触れた西洋の驚きとも相似をなしています。
つまり、(その国の)表現方法とは文化の積み重ねで到達できる風土に根差した過程で生じる事象だと言い換えることができる好例だと思う次第です。そしてそれらは伝播し巡り巡って種をまき続けるのです。
もし北斎が「鬼滅の刃」の漫画とアニメを見ることができたのなら何と言うのでしょう?
やはり「わしはもっと長生きをして画の本質を見たかった…できれば自分が成し遂げたかった」と思うのでしょうか。
 

「神奈川沖浪裏」の画を大胆に分析することでさらに以下の事実が判明しました。
  1. 分割したコマ分けという考えが正しいかどうかは別として北斎は富嶽三六景を「舞台」として表現している。
    ちなみに本項は「NHK歴史探偵」でも触れていただきました。
  2. 時間経過と遠近法は舞台の背景美術と一致している。
以上の解説はまた別項で行います。
つづく…

絵・写真・動画・文:久保覚(富士五湖TV)
資料:国立図書館・国土地理院・wikipedia
使用ソフト:カシミール・GoogleEarth
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