第七章


和解

 私たちが提出した書面に対して池田弁護士は反論してこなかった。どうやら、イーストが私たちに給与を支払う意思があると記述してある証拠品とイーストの社員であったことを認める証拠品の威力が大きかったようである。
給与支払いの意思がある証拠品は本物語でも紹介した曽根社長の「ちょっと待ってくれ、後で払うから」と書いてある覚書である。
また、私たちがイースト社員であることの証拠品は雇用保険離職証明書だ。イーストは私たちに給与を支払っていることにして保険料金を納めていてくれた。つまり、雇用保険離職証明書上ではイーストが私たちに最後まで給与を支払っていたことになっている。
 これじゃ、我々がクリエイトに移っていることが事実でもイーストに言い逃れは出来ない。結果的には隠岐会長の巧妙な作戦の賜物なんだ。私たちがクリエイトに移っても給与はイーストから出していた。つまり、出向扱いという形だった。
曽根社長は、反論の中でこういうこと(隠岐が我々の給与を先導していた)を主張したかったんだろう。だが、それは通じない。出てくる書類の上では、どれも私たちの主張が正しい(給与はイーストが支払っている)ことを指し示している。

 私たちは曽根社長の裏切りとも思える行為に腹を立てた。私はイーストが好きだった。だが、曽根社長の言動には何度も失望した。人間性の小ささは致命的だ。
曽根社長を助けようとした人から順に彼のもとを去っていく。つまり、彼を助けようとして親身になると裏切られるのだ。そして、この反動は大きいということだ。
繰り返すが、本当に私たちにとって給与の件はどうでも良かったのだ。

池田幸一弁護士 「こんな書類があるんじゃ困ったね…」
我々の提出した証拠品を見た池田弁護士はつぶやいた。そして、次回の法廷では和解にしたいと言って、その日の裁判は終了した。
 法廷を出て長い廊下を歩き、エレベーターホールにくると池田弁護士が口を開いた。
「曽根社長は自分の言い分だけで重要なことを教えてくれないんですよ」
裁判所から屋外に出るまでの短い時間、私達と池田弁護士は会話を交わすことになった。
「本当に困っているんですよ…」
「そうでしょ?ところで隠岐会長との件はどうなっているのですか?」
「どうなんですかねぇ…今は会社整理に追われていますから。曽根社長、私にも本当のことをあまり言わないから、そっちも進まなくてねぇ」
そこへエレベーターがやってきた。みんな暫し無口になり、エレベーターに乗り込む。
「イーストは隠岐会長のものなんですか?」
エレベーターの降下音とともに湯川が口を開いた。
「一応ね、脅迫ってことで彼(隠岐会長)に言っているんですけど、なかなか聞いてくれなくてね」
会話は途切れ途切れだ。しかも、みんな階数表示のランプを目で追っている。
「本当に何も進んでいないんやね。如何にも隠岐会長と曽根社長やね」
この一言はその場にいた私や湯川や高田弁護士、それに池田弁護士も一緒になって静かに笑わせた。狭いエレベーター内に乾いた笑い声が吸い込まれた。

 東京地方裁判所を出ると、池田弁護士が「それでは」と言いながら別の方向に歩いていった。
「ありゃダメだな…」
高田弁護士が静かにつぶやいた。私もそう思った。曽根社長も情けないが、池田弁護士も弁護をあきらめている。
池田弁護士も弁護すべき人である曽根社長に裏切られているのだろうか?それで嫌になっているのだろうか?それとも…?
まぁ、どちらにしても私には関係の無いことになっていた。

 次回からの裁判は1998年1月になってから行われた。既に和解の方向で話が動いている。
「この金額じゃ債権者に説明がつかない」とか「退職金規定の計算方法が若干違う」とか「未払い給与は基本給だけにしてくれ」といった値切りの交渉になっている。
あいかわらず曽根社長は来ていない。しかし、池田弁護士との話合いで和解することには同意をしたようだ。
正直なところ、私も湯川も目の前で曽根社長が「ゴメンナサイ。なにもかも君たちの言う通りです」と言ってくれたほうが気分が良い。だが彼はいない。
しかし、裁判官と池田弁護士が和解条件の話をしている風景は気分が良かった。
「勝った!」という気分の高揚だ。思わず口元が緩む。

 「和解という事なんで若干要求金額を抑えてくれませんか?」
裁判官が私たちに話しかけてきた。
「ああ良いですよ。じゃ、1割引と言う事で…。消費税はいらないですから」
すっかり場は和んでいた。裁判官は電卓を持って和解金額の計算をしている。

 「曽根社長に土下座をさせるっていう要求はダメなんですか?」
湯川が高田弁護士に小声で質問している。
「それは請求外になるね。慰謝料とも関係ないからね」
「じゃ、和解書を持って曽根の家に行って、カネ返せ!とドアの外で叫んでも良いんですか?」
「そりゃ、自由にやってかまわないよ。ただし、未払給与立替払を受け取ってからにした方が良いよ。まず国に相手(会社)が支払えないと思わせないと」

 そんな会話をボソボソ話していると和解金額の計算が終わった。裁判官と書記官が何やら密談をしている。そして、少しの沈黙…。
「……」
「あー、良いですか?和解条項、被告は原告和田に対して…」
突然、裁判官が大きな声で和解条項を発表し始めた。隣で書記官がその発表を書き写している。私たちは裁判官の言葉を一語一句余すことなく頭の中で反芻していた。
そして、2月になったある日、和解内容が記述された書類が私の手元に届けられた…。

和解調書

事件・期日・場所・裁判官…。

和解条項

  1. 被告は、原告和田信也に対し、本件賃金及び退職金として、金260万円の支払い義務のあることを認め、これを原告和田方に持参又は送金して、直ちに支払う。

  2. 被告は、原告湯川祐次に対し、本件賃金及び退職金として、金173万円の支払い義務のあることを認め、これを原告湯川方に持参又は送金して、直ちに支払う。

  3. 原告はその余の請求を放棄する。

  4. 原告らと被告間には、本和解条項に定めるほか、何ら債権責務のないことを相互に確認する。

  5. 訴訟費用は各自の負担とする。

以上。

とまぁ、こんな具合だ…。


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