第五章


技術者の死

 隠岐会長が信じられなくなった私は仕事が手につかなくなっていた。何に対してもやる気が沸いてこなかった。無気力な日々が過ぎて行くだけだ。
しかも、Drawingの説明図を書く事にもサボタージュしていた。隠岐会長に利用されるのが嫌だったからだ。私は忙しい振りをして実際は何も仕事をしない日々を送っていた。
私生活も乱れていた。連日連夜、女性を伴って飲んでいた。技術者ってのは妙な癖で、24時間中システムの事を考えているものだ。ところが、考える事をしない日々っていうのは実に甘美な体験だ。

この時、和田信也は技術者として死んだ…。

 1996年の夏…。最悪だ…。

大谷圭吾 イースト技術部部長 この年の夏のボーナスの話が東京本社にてあった。イーストはボーナスが無いと私は木藤社長(イーストから見れば木藤専務)から会議室で聞かされた。その後、隣室で待機していた大谷部長に木藤社長はボーナスの件を伝えた。
大谷部長は、冗談じゃない、そんな事をしたら暴動が起きますよと木藤社長を脅した。
「彼らだって一生懸命仕事をしているんですよ」
大谷部長の悲痛な叫びが部屋に響いた。それでなくても、イーストでは給与の支払いも遅れたり、分割で支給されていた。
もう、これ以上社員を押さえておく事が出来ないという事なんだろう。

 クリエイトでは私や湯川に気遣いしているのだろう、隠岐会長はボーナスをクリエイトには出す気だ。その件でクリエイトの役員会が行われた。
ところがイーストでは社員の不満の声が高まった。出向者までもが、仕事をボイコットすると脅かし始めた。しかし隠岐会長を脅しているのではない。何の権限を持たない曽根社長を脅しているのだ。
隠岐会長はイースト社員に糾弾されている曽根社長を見て、あいつ(曽根社長)は気の小さい男よと笑っていた。横で木藤社長が、「会長、まずいですよ」なんて話している。
私は2人の会話が聞こえないふりをしていた。無気力な私にとって抵抗する気もしない、対岸の火事を決めこんでいた。

 どこか曽根社長を慕っている木藤社長は、隠岐会長に1つの提案をした。
「会長、ここで仕事が止まるのはマズイからボーナスを一律で出しましょう、イーストもクリエイトも一律で…」
このオッサン何を言うんだ?と私は思った。
仕事をしている人も、していない人も一律でボーナスを出すなんて…、イーストの悪習そのままじゃないか。この状況下でも全員を助ける気なのだろうか?いや、全員じゃない。仕事の出来る人を切るつもりなんだろう(皮肉)…そういう事だ。頭の硬直した人間(木藤社長)はその本性を一生変えられない。
 私はイーストの事なんか知った事じゃない。クリエイトのボーナスも一律だってことが気に入らない。クリエイトはイーストの悪習を排除した会社にするんじゃないのか?

 対岸の火事がこちらに来た…。
無気力になっている私も何か言っておかないとマズイ状況になってきた。
そもそもイーストにはボーナスを与えるだけの予算が無い。私の考えでは、仕事の出来るイーストの社員にボーナスを与えて他の社員はボーナス無しにするのが良いと思った。そうしないと出来る社員に金が回らない。おそらく5人程度が授与者だろう。
木藤社長の言うように一律でボーナスを渡したら、1人当たり2万円程度になってしまう。本当に笑えるような状況下だ。
その場は隠岐会長のイーストになんか金を渡す事も無いという意見でイーストの話は一応の決着を見た。
 次はクリエイトのボーナスの件だ。
隠岐会長はクリエイトは発足したばかりだから資金があまり無く、国から融資を受けた分で賄うと発表した。おそらく、Drawingのベンチャー融資が決まったのだろうか?(ちなみに私はDrawingの設計図を渡していない)
結局、借金でボーナスを支払うという事だ。隠岐会長は金を搾取しておいて、会社には、つけを回した。と同時に隠岐会長はクリエイトの共同代表を辞任した。意図はわからない…責任回避なのだろうか?
クリエイトのボーナスの件は保留という形のまま話し合いは終了した。

和田信也 イースト部長&クリエイト取締役 それから数日後、イーストの大谷部長から相談を受けた。「イーストの社員のボーナスがどうにかならないか?」という事だ。
大谷部長は、「自分のボーナスは無くても良いから社員に回らないか?」と言ってきた。普段から大谷部長はイーストの社員に厳しい事を言っているため、イーストの社員の中には彼に反感を持っている人もいる。その状況をわかっているにも関わらず、大谷部長が社員のために相談してきているのだ。
私は何か名案が無いか?と模索した。技術者として死んでいる私にとって考える時間は十分あった。
そして1つの妙案を思いついたのだ。
 それは、ボーナスを物で受け取ろうという案だ。私の地方事務所の若い社員は自宅にパソコンを持っていない。常々、パソコンの技術を学ぶためには日常からパソコンに触れていなければダメだという思いが私にはあった。だからクリエイトのボーナスは、パソコンの現物支給ってのはどうだろう?
さっそく営業部に電話を入れ、湯川に案を聞いてみた。結果は良好。営業部の皆もパソコンを欲しいと言っている。
充分なリサーチの結果、ボーナスの一部がパソコンに化けても問題はなさそうである。どうせクリエイトのボーナスも10万円程度だと予想できていたので、40万円相当のパソコンのほうが魅力的だ。もちろん、クリエイトの社員が若かったという事も要素として大きい。変なローンの心配も無いからだ。
あとは隠岐会長と木藤社長の説得だ。私は木藤社長に電話をした。

「木藤さん、クリエイトのボーナスなんだけどもパソコンの現物支給ってのはどうですか?」
「え?だめだよ…高いんでしょ?」
「木藤さん、良い方法があるんですよ。パソコンは会社の必要経費で購入するんですよ。だから本当は社員の私物にならないんですよ。」
「…どういう事?」
「どうせパソコンも原価償却するんでしょ?その後で社員の私物にするんですよ。社員には2年間会社に居たら自分の物に出来るって約束して…」
「なるほど」
「その間はしょうがないから会社のものだけど、そのパソコンはどう使っても良いんですよ…つまり、家に置こうが会社に置こうが」
「いいねぇ、でも問題は隠岐会長だな…」
「何言っているの?隠岐会長は月々400万円も搾取しているんですよ。会長だけに良い思いはさせないよ。必要経費だから…」

木藤浩次 イースト専務&クリエイト社長 ここまで話すと、木藤社長は自分の中で何かができると感じたのだろう。パソコンの現物支給に同意した。もちろんクリエイトで浮いた金はイーストに回る。つまり、クリエイトはイーストに融資をするのだ。これによってイーストのボーナスは一律5万円となった。
クリエイトでは能力に応じて平均5万円が現金支給された。もちろん40万円相当のパソコンも一緒に。木藤社長は嬉しそうに自分のプリンタを発注していた。
木藤社長曰く、「俺はここ半年も給与を貰ってないから、これくらい良いよな?」とはしゃいでいた。会社の金でパソコンを購入して自分と社員に配ったという重大な事実を気にもしていない。本当に呑気な社長だ。
どうやらパソコンの件は隠岐会長には話半分で通しているようだった。おそらく共同代表で無くなった効果なのだろうか?
私はお膳立てをしただけだ。アイディアを実行したのは木藤社長だ。その過程で、どのような手段を使ったのかは知らない。
しかし、忘れてはいけない事実がある。確実にクリエイトの資産は減っているのだ。ただ帳簿の上に資産があるように見えるだけなのだ。
そんな事件があったとは知らないイーストの社員は5万円のボーナスに不満が募っていた。まったく社員という身分は気が楽だ。
しかし、5万円まで出たという微妙なラインで次第に事態は沈静化していったのだ。とりあえずは良かったのだろうか?

 私は技術者として死んだ…。
ボーナスの例だけじゃなく、くだらない事件に巻き込まれてばかりいる。だからと言って会社の事を考えた行動でもない。私だけじゃない。もはや隠岐会長の周囲に会社の事を考える人物など居ない。
 私にとって、敵は隠岐会長だ。漠然とわかった。そのためにはクリエイトがどうなろうと知った事じゃない。もちろんイーストも…。
しかし、どうすることもできないのだ。
逃げ出す事は容易い。だが、地方営業所には5名の部下がいる。湯川もいる。
クリエイトに100万円も出している。これも悔しいし、なんとかならないのだろうか?
この時期の私は奇妙な妄想に取りつかれ、机上の空論を演じる機会が増えていたのだった。


一つ前へ ホームへ戻る|五章登場人物|読み物目次 一つ後ろへ