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第一章


事務所移転

 1989年の秋、木藤専務と飲んでいると、「和田君、うちの会社に人を呼べないね」といってきた。
飯田橋事務所そう、お世辞にも現在の会社は快適とはいえない。
場所は飯田橋駅の近くにあったが、部屋は小さく、まるで昭和初期の頃のようなビルだ。
社長室で内緒話をしていても、すぐ外に会話の内容が聞こえてくるような造りで、良く木藤専務が怒鳴られているのが聞こえる。

 私が入社した当初は、出向者が多いせいもあって、社内はガランとしていた。
しかし、Drawingを契機にパソコンのプログラム開発も多くなったり、また出向者が帰ってきて、汎用機の受注開発も行うようになったので、社内は手狭になった。
それに加え、Drawingの販売戦略から、営業部とショールーム(代理店教育)も必要になってきていた。
だから、現在の事務所では、少々心許ないと私も思っていた。
 続けて木藤専務は、「うちの子供を会社に呼べねぇよな…せめて子供が父親の会社に訪問できるようにしないとね」という。
当時の私には子供がいないので、そのような気持ちはわからないが、確かに昔の友人には恥ずかしさもある。
 「どうだい和田君、社長に事務所移転を提案するかい?」と木藤専務。
そうなのだ、彼は優柔不断なので、自身の考えであっても上に進言しない。そこで、私の希望という事にして社長に進言するつもりなのだ。
もう少し簡単にいうと、自分は責任を取りたくないのだ。事務所移転が失敗しても、それは自分のせいではないという布石が欲しいのだ。

「事務所移転ってお金かかるんでしょ?会社にお金あるの?」
「和田君は心配しなくても良いよ、一応お金はあるから…」
「じゃ、移転しましょうか?」
私も今後の方針展開を考えるに、移転は必要だと思った。
木藤専務も同様の考えだろう。だからといって私をダシに使わなくても良いと思うのだが。

 そんな会話があってから1ヶ月後、私は社長室に呼び出された。部屋の中には曽根社長と木藤専務が並んでソファーに座っていた。
「和田君、蔵前に事務所借りたから」と、曽根社長は「どうだい」というような雰囲気で発言した。
木藤専務は社長の言葉にただ軽く数度、私を見ながら頷いている。木藤専務のお得意のポーズだ。
「俺は君の言う通りにしたろう?」というときのポーズだ。このポーズで何度、恩を売られたような具合にさせられたか…。
 しかし気に入らないのは、事務所を決めるまでに一度も会社から相談が無かったことだ。一緒に会社を設立した水上部長でさえ直前まで知らなかったようである。
まぁ、当時の一社員である私がそのような事に首を突っ込むまでもないと思うのだが、何か釈然としない。
そうだ、人をダシに使っておいて、その後、曽根社長と木藤専務が秘密裏に処理したことだ。
何故かいつもこうなんだな…という思いである。
蔵前事務所
「今度の事務所は広いぜ、和田君も沢山仕事できるよ」と木藤専務がいつものように、おちゃらけて言う。
「じゃぁ、そういうことだから…、吉田君を呼んできてくれる?」と曽根社長。
そこで、私は社長室を出ると吉田課長にその旨を連絡した。
 吉田課長は社長室に入り、話を終えて部屋から出てくるなり、「和田、会社移転するんだってな」といってきた。
「会社も遂にここまで来たか、社長に拾われた頃が懐かしいよ」と、何時の間にか世間話になる。
「昔、日本橋にあったイーストの事務所はドアを開けると正面の外に面した窓に机が置いてあるだけだったんだよ」
タバコに火をつけながら吉田課長は続けた。
「しかも、階段が外付けで、マッチ箱みたいな建物だったんだ」
更に事務所奥にいる水上部長のほうを見ながら、「水上さんは夏になるとランニングになって、足をタライにつけて仕事していましたよね」と少し大きな声で言った。
すると、「おう、そうだったねぇ」と水上部長が返答してきた。
続けて、「しかし、だいじょうぶかねぇ移転なんかして」とだけ言うとすぐに仕事に戻った。
どうやら、水上部長は少なからず事務所の移転に反対したようである。
それが、Drawingを妬んでのことか、本当に心配なのかは不明だ。

 しばらくして吉田課長が「新しい事務所の見学に行って来るかい?社長から地図をもらったから」と、その場にいる社員に話しかけた。
私はそういうミーハー的な行動は余り好きではないので、その時は断ってしまった(そのへんが私のひねくれているところだ)。
 翌日、吉田課長は部下数名を引き連れて新しい事務所を見学に行った。

……。

「和田、綺麗なところだよ」と見学から帰った吉田課長が嬉しそうに言う。
「ビルの5階で1階の入り口はガラスの丸い自動ドアだよ」と一緒に見学に行った木場主任が言う。
「そうそう、しかも1階にはブティックが入っているよ」と吉田課長。
現在の会社の入っているビルは1階が果物屋さんで、エレベーターも無し。4階まで一気に駆け上がる暗く細い階段が付いているだけ。ちなみに、湯川はこの階段の途中から下まで足を踏み外して、一気に下まで落ちたことがある。
「窓の外には隅田川が見えて、窓も広いよ、でもJRからだと浅草橋の駅から徒歩で10分は歩くんだ」と木場主任。

そんな話を始めたら、社内にいる人全員が集まってきて、見学に行った数人を囲んで話が盛り上がった。
 おそらく、その場にいた誰もが、会社は順調に成長していると思ったことだろう。上に対しては色々あるが、会社は順調だという事実が不満をかき消していた。
私も湯川もそうだ。とりあえず上に文句を言えるし、周りも一目置いてくれる。
仕事も順調だ。そう、日本中が勘違いしている時期が我がイーストにも遅れてやってきたのだ。
いや、やってくるという予感がしたといえるだろう。
とにかく事務所の移転からイーストは新たな一歩を踏み出すこととなる。


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