第一章


新展開

 入社した年の夏のある日、大手ゼネコン(スーパーゼネコンとも言う)の鈴木建設から、人工知能を応用したCADシステムの開発を共同で行いたいと申し入れがあった。
当時イーストが手がけたCADシステムが鈴木建設に導入されている経緯もあってのことだが、驚いたのはイースト社内。
つまり、人工知能のわかる社員がいないのだ。先輩社員の誰もが尻込みし、会社に断りを入れてきていた。
そんな事情を知らない私のところに曽根社長が来て、「和田君、人工知能してみない?」とメガネを指で上げる動作をしながら聞いてきた。新しいプログラムに飢えていた私は、つまり、「します!」と即答してしまったのだ。
思えばこの一言がその後のイーストの繁栄と衰退を招いたのかとも思える。そして私の人生もこの一言で変わったのであった。
またまたチャンスが向こうから自然にやってきた。いや、掴み取ったと思おう…。
それは私が、23歳の時だ。

 何はともあれ、イーストにとって初めてのパソコンの仕事(周りは汎用機)。
初めての出向無しの社内開発と自社製品(周りは出向がメイン)。
初めてのC言語導入(周りはFORTRANやCADに付いている簡易言語)。
初めての…。
というように、社内の業務体系を完全に一人で変えてしまったプロジェクトでもあった。
気がつけば後の古株社員の中で、出向経験の無い社員は私だけになっていた。

木洋一 鈴木建設計算機部課長 それから数ヶ月の間、鈴木建設と打ち合わせをしながらプロトタイプ作成に明け暮れる毎日。
この時、鈴木建設の木課長と知り合った。課長といっても動かせる金額はイーストの曽根社長以上…。
プロトタイプについて鈴木建設では勝手な要求を言うだけ。「こうなって、あーなる…」というような具合(これはこれで重要)。
それを実際にプログラムに落とすのには大変な苦労があったが、言われるがままのプログラマーなんてつまらないという思いもあり、仕事に励んでいたのだった。
 新しいアイディアやロジックを考えるのも私の仕事。奇抜なアイディアや処理等は後年になって特許出願もした。出願したのは鈴木建設だったが。
それを、「あーだ、こーだ…」と頭を交えて議論。見なければわからないというので、試作タイプを幾つか用意していく…。それを鈴木建設で社内モニタをして、「こーなって、あーなる…」とまた要求。
工程管理でしか仕事をした事の無い人には理解できない仕事であったろう。工期はあってないような仕事、つまり、研究開発というジャンルに属されるプログラマーにとってはやりがいのある作業だ。
その仕事を、「お金を出すから思う存分やってよ」という鈴木建設。やっぱり入社1年目の私にとってはラッキーだったのだろうか?

 他の社員も時々会社に戻ってきた時に興味深げに質問してくるが、既に彼らにとって私は歯の立つ相手ではない。当初の私の野望は1年も経たずに達成されたのであった。
人の出来ないことをやれ、人より早く正確にの心情だ。
ただし、大規模プロジェクトによる工程管理や見積りという点では水上部長にだけには追いついていないが…。しかし、プログラム技術や設計では対等に相談できるようになったと自負もしていた。

 プロジェクト・スタートから半年、遂に画期的なCADのプロトタイプが見えてきた。プロトタイプなので入力と出力が出来る単純な構成で、画面レイアウトも粗雑なものだった。
しかし、それには理由がある。この画期的なCADにはメニューが存在しないのだ。
つまり、CADのオペレーターを介す必要の無い、図面を描く人自身が直接入力できるCADなのだ。それは、人間がやりたいことを意思表示すれば、コンピュータが自動判断してCADの図形が描けるのだ。
 従来のCADは線を一本作図するのにも、メニューから<>を選んで、「どこからどこまで」と指定する。これは極めてコンピュータ(プログラマ)にとって都合の良い処理方法だ。処理の経路が確定しているため、プログラム設計をやり易いのだ。
そして、その都合をユーザーに押し付けた結果、作図者が直接作業できないCADシステムが出来あがった。これが一般のCADだ。
現在も版権や著作権に関わるので詳しくは触れないが、このプロトタイプによって次世代のCADを担う光明が見えてきたのであった。

 通常、D.B.(データベース:コンピュータ内に色々な情報を蓄え、その情報を操作する仕組みのようなもの)の設計を終えるとシステム設計は終了したと言える。
和田信也 イースト社員 アセンブル的システム…コンピュータの都合(正しいデータが入るまでシステムが停止)による操作方法をユーザーに要求する。極めてプログラマー向きなシステムなため、システムの融通(改変)が利くと勘違いされる。ある程度システム設計無しにシステムが出来あがるので、勘違いプログラマーを大量生産する。D.B.も単純な仕組みで良い。
 メニュー優先システム…ユーザーが使用するメニューを設計者が勝手に決めて、それに従ってプログラムされる。ユーザーは根拠の無い開発者が決めた操作を体得しなければならない。しかし設計者は、如何にシステムを使い易くするのか?に心を砕いている。そのため、勘違い設計者を大量生産する。先のアセンブル的システムと混合されたシステムが過去のアプリケーションの大多数を占める。この混合されたシステムばかり製作していると、自分が神になったような錯覚に陥る。
 オブジェクト優先システム…Windowsの操作方法に代表されるシステム。最初にユーザーは物(オブジェクト)を選択し、続いて操作を要求する。つまり、物(オブジェクト)をどのように操作するのか?を設計の中心に据えたシステム設計となる。D.B.も、ある程度想定される事象を考慮した設計となるので、システム全体のヨミが無ければシステムに破綻をきたす可能性がある。しかし通常は、ユーザーの操作方法だけをオブジェクト優先にし、システム内部を先のコンピュータ優先に設計する方法が多い。問題はその技術的要求の割合である。決して、オブジェクト優先の多い設計が良いシステムとは言えない。
 人間優先システム…SF的に言えば、2001年宇宙の旅に登場したHALである。常に人間の行いたい動作を監視し、システムの知識と経験で人間寄りのサービスを提供する。現在はインターフェイス部分の研究が盛んだが、コンピューター全体を同様の技術で記述する可能性もある。現状ではHALまでとは言わないが、ある業務に特化した部分なら人間側の要求するシステムを構築できる。あくまで人間は従来通りの作業をするだけで良く、そこにコンピューターがあることを認知しない。例えば、八百屋さんの売上金入力は紙にペンで書くように行う。その先はコンピューターの世界で行える高度な処理も出来る。キーボードで数字を入れたほうが早いけど…?と言う疑問に固執するようではいけない。それは、どこかで人間がコンピューターに従う場面を想定しており、先の3つのパターンの設計から脱出できない。このシステムの設計はD.B.の設計から複雑さがつきまとう。

 開発したDrawingは、図面設計者に特化したシステムで、コンピュータへの入力に本物のT定規や三角定規も使用できる。ユーザーは電子ペンを持つという違和感があるが、その他の操作は普段の業務と変わらない。ラフなスケッチをコンピューターが推論して正規な図面に仕上げる…これがDrawingの最終目的だ。
例えばユーザーが失敗した線を消す時に、その線上でグシャグシャとペンを滑らせる。ならば、コンピュータはその動作を線の消去と判断しても良い。このような推論の集大成でシステムを動作させるのがDrawingだ。

新谷方正 鈴木建設計算機部 Drawingのプロトタイプが完成した冬のある日、このソフトを販売する話がイーストと鈴木建設で具体化した。
これは大変なことだ。
鈴木建設にとっては重箱の隅をつついたような話なのかもしれない。しかし規模の小さいイーストにとっては重箱をバットで殴るような話だ。
 何故なら、パッケージからサポート、営業から販売までをイーストが新設しなければいけないのだ。
プログラムもより完璧さを要求されるし、ユーザーの要望も踏襲しなければいけない。
それら雑多の作業をイーストは業務として行った事が無い。鈴木建設は販売権を与えたり、広報を支援するだけだ。
それ以外はイーストの責任であたらなければならない。本当の意味で会社が社会貢献する時がきてしまった。
重箱が壊れて新しい入れ物ができるのか?はたまた壊れたままになるのか?
不安を増長させてもしかたがない…やはり、大きなチャンスなんだろう。

訃報:
商品化の決定した年、一緒に会議を通して議論してきた鈴木建設の新谷さんが32歳の若さで他界されました。
謹んでご冥福をお祈りします。

 私が入社してから1年後、会社は長年の出向体制を転換するような変革を迫られたのであった。
実際には緩やかな変革路線として、2年を要したが、社運を賭けたプロジェクトのリーダーとしての地位を私は入社1年で与えられてしまったのだ。
通常は正式なチームを発足させるのだろうが、出向者の都合もあり、緩やかな変革という方針で、私が続投となったのだ。
24の春だ。
思えば1年前には水上部長に引率されて、池袋のサンシャインシティーに出向いたのが懐かしく思える。

 居酒屋の談笑から7年目(1988年)、イーストは新たな変革とバブルの到来によって荒波に運命を投げ出し始めていた。


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