第六章


退社

 1997年6月6日午後1時。私は湯川との待ち合わせの場所に向かう。
うす曇で少し汗ばむような天候だった。
「和田さんこれ、会社の住所なんやけど…」
「麹町ねぇ…。私達ってイーストの社員だよなぁ?会社の場所もわからないって面白いね」
「そやね、大会社みたいやね」
「さてと、どの電車で行けば良いんだ?」

 私と湯川はイーストが存在するであろう、麹町に向かった。
「えっと…2丁目、2丁目と…あっ、あった。セントラルビル…」
湯川が発見した。
「おっ、本当だ」
ビルの案内板を見るとイーストと書いてある。どうやら、ここで間違いがなさそうである。
湯川祐次 イースト営業課長
 イーストのある3階の部屋に向かい、ドアを開ける。
部屋の中には社員が数名、何やら仕事らしき事をしている。過去にイーストを退社した若い社員が1名、バイトとして仕事をしていた。
一見すると順調なソフト会社に見えるが、空気はしらけきっているように感じる。
「おう、こんちわ。仕事やっとるかぁ?」
まず湯川の先制パンチだ。
「なんだぁ?菊間…おまえイーストを辞めてどっかの会社に行ったんとちゃうの?なんだこりゃ茶パツにして…イーストも変わったねぇ」
「はぁ、はい。ゲーム会社はきつくって…」
「ゲーム会社に行くと茶パツになるんかい?イーストもバイトをやとぉて、儲かっているみたいやね?」
「いいえ、僕達なにも仕事をしていませんよ。そういえば、湯川さんもヒゲを生やしているじゃないですか?」
そうだ…。湯川は在宅勤務の間にヒゲを伸ばしていた。その風体は危ない人のようだ。
「しっかし、若い社員だけかい?社長おらへんの?」
「ええ、なんか大谷さんと出かけているみたいですよ」
 他の社員は私達に目も合わせない。
「しっかし、しんきくさい会社やのう…。茶も出さんのかい?」
有馬敏夫 イースト経理担当部長
 「あっ、有馬さんこんにちわ」
私は部屋の隅で経理の仕事をしている有馬部長に話しかけた。
「おっ和田君、元気かい?ところで今日は何?」
「ええ、辞表を提出に来ました」
「えっ…?本当に?」
「はい、この会社は給与も払わないみたいですし。でも退職届を書いてこなかったんでここで書きますよ。書き方を教えてくださいね」
「あっ、ああ。わかった」
有馬部長は突然の出来事に驚いているようだった。
「えっ、和田さん会社を辞めるの?湯川さんも?」
茶パツの菊間も驚いているようだった。
「じゃ、いよいよイーストも終わりってことですかねぇ?」
「あったりまえよ。わしらがおらへんのじゃ、イーストも終わりやね」
 退職届を会社で書くのには理由があった。証拠の保全である。私達は給与を受け取っていない。会社は出社していないという理由にしたがっている。
ヘタをすると会社は私達の退社日を遡って手続きする可能性があるのだ。そこで私達は、イーストを退社したのは6月だと印象付ける必要があったのだ。
和田信也 イースト部長
 有馬部長がメモ用紙を持ってきた。
「いいですか、有馬さん。私達は一身上の都合で退社することにしてあげるんですからね」
「は?」
「じゃ、給与未払いって書いても良いんですか?」
「い、いや。それは社長に聞いてみないと…」
「で、社長に連絡してもらえます。和田と湯川が会社を辞めるから直ぐに会社に来いって」
「ちょ、ちょっと待っていてね」
「あっ、有馬さん。ついでに封筒も貰えます?」
有馬部長は曽根社長に連絡を取っているようだった。どうやら1時間ほどで戻ってくるらしい。
私と湯川は事務所で時間を潰すことにした。そういえば徳田の姿が無い。どうしたのだろう?
大谷圭吾 イースト技術部部長
 1時間後、部屋のドアが開き曽根社長が帰ってきた。大谷部長も一緒だ。
「おい和田ぁ…会社辞めるんだ?」
「ああ、辞めるよ。ごめんなイーストに誘っておいて…」
「いいさ、誰だってこんな状況じゃ辞めたくなるよ」
大谷部長と会話が始まりかけた時、曽根社長が話を遮った。
「ここじゃなんですから、外に行って話しませんか?」
「いいですよ。じゃ大谷、そういうことだから…」
「わかった…」
大谷部長は私を眼で送りだした。
私と湯川は退職届を書く用紙と封筒を持って事務所を後にした。これが私の見たイーストの最後だった。
これ以降、大谷とは時々電話で話をする機会があるが、面と向かって会ったことがない。
曽根昭 イースト社長
 曽根社長は先頭を切って近くの喫茶店に私達を誘う。
「ちょっと待ってください。ここの支払いは誰になるんですか?」
「もちろん、私ですが?」
「ああ、良かった。社長はもう金が無いと思っていましたよ。また奢らされるんじゃたまんないからね」
湯川も舌戦を交わす。
「その前に給与を支払ろうてくれたら良いんですけどね?」
私も湯川も敵対モードだ。

 イースト事務所近くの喫茶店にて…。
3人ともアイスコーヒーを注文した。私と湯川が隣同士に座り、曽根社長はテーブルを挟んで向こうだ。
「和田君も湯川君も会社を辞めるんですね」
曽根社長の開き直った雰囲気が漂う。
いや、もう面倒は嫌だということなんだろうか?通常のパターンなら、和田君…、湯川君…、会社辞めるなんて言わないでね…と続くんだが、今日の曽根社長は違う。
「はい辞めますよ。給与を支払わない会社には普通じゃ、いませんよ」
「それは、あなた方が会社に来ないからだよ」
「何言っているんですか?給与が払えないのは金が無かったからでしょ?また何時ものように事実を曲げて…」
「とにかくわかりました。で、何か書いてきたんでしょ?」
曽根社長は私達が手にしている封筒を見て言った。
「いいえ、まだ何も書いていません。一身上の都合ってことで目の前で書いてあげますよ」
「社長ぉ、一身上の都合ですよ。給与未払いって書かないだけ、ありがたく思うてくださいよぉ」
「しかも、退社日は5月31日にしてあげるから」

退職届

私、和田信也は一身上の都合により退社致します。

1997年5月31日 和田信也

 簡単な退職届だ。10年間在籍した会社を去るのにメモ1枚と捺印で終了だ。
退職届と書いたメモを封筒に入れて曽根社長に渡す。これで手続きは全て終了した。
「社長、引継ぎはしなくても良いでしょ?」
「ああ、いいよ。何も仕事はしていなかったでしょ?」
「していましたよ。在宅勤務で忙しかったんだから…」
「ああ、そうですか。ところで君達はこれからどうするの?」
「心配しなくても結構です。多分、社長より人生は約束されていますから」
「社長、自分の心配をした方がエエのと違いますか?」
「じゃ、これからは社長と社員という関係でなく、友達同士で話でもしましょうか?」
「はい、わかりました。でも、あんまり時間が無いんだよね…」

 まず湯川の攻撃から始まった。
「よし、わかった曽根君。何を悩んでいるのか話してごらん?」
「なんだよ、それは?いくらなんでもそれは…」
「良いんじゃないですか?曽根さんはその程度だから。湯川の言う通りだね」
曽根社長がムッとしてきた。こりゃ面白い。
「曽根さん、給料も払わない会社って泥棒と同じですよね?どう思います?」
「……」
「ところで、曽根さん。保険とか年金はきちんと処理していましたか?給与の手続きがしてないので心配なんやけど?」
「それは手続きをしていました」
「じゃ、給与を支払わずに手続きだけしていたんですか?本当ですか?」
「本当です。それは信じてください」
「ついでですけど、退職金は支払いますよね?」
「ああ、言われなくてもきちんと払うよ」
「そうでっか、いやぁ退職金を受け取っていない人が多いんで心配しましたよ」

「曽根さん、私達は給与の件を労働基準監督署に言います。良いですね?」
「ああ好きにどうぞ。やつらなんて全然怖くないよ」
もはや曽根さんは完全に開き直っている。目線も妙に冷たい。
「隠岐さんも悪いけど、まずは曽根さん、あなたからしかるべき手を打ちます」
「しかるべき手って?」
「まぁ、それはお楽しみという事で…。隠岐さんがイーストから手を引くようにしてあげますよ」
「…?」
「曽根さん、私達が会社を潰してあげますよ。よかったね楽になりますよ」
「会社は潰れませんよ。隠岐会長も俺を恐れているよ。だから色々な事をしてきているんだ。会社は大丈夫ですよ」
「はぁ…隠岐会長が恐れているねぇ、まぁ良いか…。私達も怖いけどね」
「とにかく、君達は会社に来ていなかったんですから給与は支払いません。その他の手続きはしてあります。退職金も払います」
「曽根さんも、もっとマシな人間だと思ったんですけどね」
「とにかく良いでしょ?時間が無いから…」
この一言で曽根社長との話は終了を迎え、喫茶店を出る事となった。

 外はまだ蒸し暑かった。
曽根社長は振り返りもせずにイーストの方向に歩いていった。
私と湯川は曽根社長の後姿を見て、「情けない会社にいたねぇ」と呟いた。
「まずはイーストから片付けないとね」
「そやね。もうちょっと付き合いそうやね」

1997年6月6日。こうして私と湯川はイーストを辞めた。


一つ前へ ホームへ戻る|六章登場人物|読み物目次 一つ後ろへ