甲州三坂水面 冨嶽三十六景(1831~1833)より |
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富士山の逆さ富士を描いた葛飾北斎の人気作品「甲州三坂水面」です。
一般的にこの画の視点場所は「御坂峠か河口湖北岸の大石付近の山である」と言われています。その大きな要因の一つとして「甲州三坂水面」の画の中央部にある浮島みたいな構図が富士五湖で唯一の島、河口湖にある鵜ノ島(うのしま)だと解釈されているからです。
通説の「甲州三坂水面」で言われていることは、この鵜ノ島を中心に、左にある建物が妙法寺、中央の集落が勝山集落、右の集落が長浜集落という解釈です。そして、視点の位置は御坂峠か大石付近となっています。
しかし、北斎の構図で「島より大きな建物」を描くでしょうか?あれだけスケッチに精緻な北斎が「北斎ならではの大胆な遠近法」という一言でこの画を眺めても良いのでしょうか?確かに一見するとデフォルメに見えることがこの画の魅力であり、北斎の魅力につながるのですが、地元の人間から見れば定説に違和感を覚える構図になっています。
しかし、違和感を覚えながらも普通に地元の人がこの画を見ると、左の山が天上山で建物は船津集落、中央は勝山集落、右は長浜集落と解釈し、通説と若干異なりますが、ほぼ大多数はこのように理解します。つまり、左右に配置された山をどのように解釈するのかの違いなのですが、実際の地形認識と北斎の画の集落配置に大きな違いがあり、地形の省略が大きすぎて現実感がないのです。
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 定説の御坂峠(〇)位置と定説次点(〇)の視点位置 |
定説の御坂峠は「何故これが定説?」と思われるほど陳腐な説なのでここえは説明しません。詳しくは「歌川広重の御坂峠」のページで解説しています。 |
もう一つの定説では湖面に浮かぶ島の位置関係を良く表していますが、集落や湖畔の形状や富士山の見え方に説得力がありません。しかし、北斎のデフォルメを信じる人にとっては「それもあり」な画の構図となり、今まで検証はなされませんでした。北斎の他の画にも言えることですが、北斎の画の専門家は富士山の専門家ではありません。私のやろうとしていることは「もう少し科学的に浮世絵の風景画を見てみよう」ということに他なりません。 |
 ちなみに御坂峠以外の定説位置(〇)から見た富士山 甲州三坂水面の風景だと言われても漠然と「そうかもしれない」となる風景ではある |
結論から記述しますと、北斎の「甲州三坂水面」の視点は通説の御坂峠でも上記の似ている位置からの視点ではありません。ちなみに、物理的に考えて水面から70m以上の地点を超えると逆さ富士は見えません。 |
御坂峠の考察はこちらにあります。 歌川広重の「甲斐御坂越」とともに解説してあります。 |
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参考資料 河口湖にある鵜の島が見える範囲のプロット
 定説の(旧)御坂峠から島は見えない |
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まず謎解きの前に「甲州三坂水面の元になったのでは?」と言われている北斎自身の作でもある「北斎漫画の中の1枚」の画を見てみましょう。
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いかがでしょうか?
上の風景画を現地の土地勘が無い人が見れば「甲州三坂水面と確かに似ているね」という認識ですが、地元の人間、特に勝山(富士河口湖町)地域の人がこの画を見れば「これは勝山湖畔だね」と答えるでしょう(この画も通説では御坂峠から見た富士山と言われています)。
そもそも、この画は現在と風景が大きく違うし、この構図を一度に全て見渡す場所はないのですが、左は4月29日に流鏑馬祭りが行われるシッコゴ公園、中央が勝山湖畔駐車場で右は羽子山(富士ビューホテル沖)と解釈する地元の人は多いと思います。つまり、この画は勝山集落の風景を3分割して繋げた画のようだと解釈できます。実際は3分割ではなく、北斎が船に乗って移動しながら描いたと見るほうが正解でしょう。現在風に言えば風景をビデオで流し撮りした感じとでも言えると思います。 |

シッコゴ公園 昔は芦の茂る湿地帯 |

勝山駐車場 昔は宿場と船着き場 |

富士ビューホテル 昔は溶岩の張り出した丘 |
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以上の風景の場所をGoogleEarthで北斎がどのように見ていったかシミュレーションします。 |
北斎の動きを予想

GoogleEarth勝山俯瞰図 |
すると、このように「北斎漫画の中に描かれた湖畔の画」は現在の富士ビューホテル沖合から勝山シッコゴ公園に船で移動しながらスケッチを行ったと考えられます。 |