第三章


赤字体質

有馬敏夫 イースト経理担当部長 さて、ここで数字を挙げてイーストの経営状況を見てみよう。
(今回は和田が物語を担当する)
これらの数字は、和田が後に会社の経営状況を把握できる立場になったときに、曽根社長が提出した資料による。
それはイーストが末期症状に陥っているときで、隠岐会長(イーストを手に入れた後の呼び名)対策時に和田が曽根社長に資料提出を迫ったのだ。
実際は隠岐会長への不正金額の流れを追うために求めた資料だったが、隠岐会長出現の前にもいいかげんな経営状況だったことがわかる。
もちろん数字のごまかしがあったとしたら、この限りではないが、営業部保管の資料とも一致しているので一応正確だとしておこう。
資料作成はイーストの経理部長である有馬敏夫だ。
ただし、もう一つ別の資料も存在する。
それは、隠岐会長に会社の権限が移ってからの決算資料だ。
後に隠岐会長が私に手渡したイーストの実態調査の資料で、過去のイーストの経営状況を嘆く材料にした資料である(後に社員にも公開した)。

イーストには大きく2つの部がある。
・技術部:ワークステーションの受注開発と出向。
・開発部:Drawingメンテナンス及び営業とPC受注開発。
以上を1994年3月末の当時の状況で分析してみる。
尚、このころ(1994年)のイーストでは、1人あたり75万円あれば会社がギリギリ維持できる数字として見ていただきたい。
また、決算は3月にあるので、1994年とは1993年度のことである。
それでは、曽根社長の資料を検討することにしよう。

吉田賢治 イースト技術部部長まず技術部から…。
年間の出向収入:
組織表では出向者が5名となっているが、実際には時期によってバラつきがある)
1992年:74万円(平均人月売上)×5人×12ヶ月=4,440万円。
1993年:75万円(平均人月売上)×6人×12ヶ月=5,400万円。
1994年:77万円(平均人月売上)×8人×12ヶ月=7,392万円。
年間の受託収入:
1992年:74万円(平均人月売上)×10人×12ヶ月=8880万円。
1993年:74万円(平均人月売上)×12人×12ヶ月=1億656万円。
1994年:75万円(平均人月売上)×14人×12ヶ月=1億2600万円。
技術部年間売上:
1992年:約1億3,000万円。
1993年:約1億6,000万円。
1994年:約2億円。

1994年の1人あたりの平均人月売上は、約76万円である。
一見すると良さそうに見えるが、技術部では事務所の維持費が割高の場所を借りていた。
また、汎用機購入資金として3年で3,000万円の特別経費も計上していた。
これは3年後に3,000万円の売上見込みがあると処理しなくてはいけない(年1,000万円)。
したがって、技術部では平均人月売上を80万円に設定する必要があった(当時資料による)。
以上を加味すると、
1992年:1億3000万円(年間売上)−80万円(技術部必要経費)×15人×12ヶ月=−1,400万円。
1993年:1億6,000万円(年間売上)−80万円(技術部必要経費)×18人×12ヶ月=−1,280万円。
1994年:2億円(年間売上)−80万円(技術部必要経費)×22人×12ヶ月=−1,120万円。
となり、3年間で4,000万円近くの赤字となっている。技術部は利益があるどころか赤字だったのである。
ちなみに1991年は+800万円となっている。
技術部の新事務所が1992年頃からスタートしたので、いかに財政を圧迫していたのかわかる。
また、汎用機購入は1991年当時ぎりぎりの選択だったことも読み取れる。うまくいけばイーストに貢献するはずだったのだ。
しかし、技術部には減価償却の意識が無く、皆忙しさから稼いでいるという勘違いが生まれていた。事実は赤字を生産していただけだ。

長井伸之 イースト「Drawing」開発部部長次は開発部から…。
Drawing開発:
1991年の投資金額(1990年度)。
75万円(平均人月)×4.5人(投入人数)×7ヶ月(開発期間)=2,362万円(見込み人件費)。
開発環境経費(パソコン、コンパイラ等)=500万円。
販売経費(出展、マニュアル、営業)=2,000万円。
初回開発経費:約5,000万円(マイナス)。
Drawingメンテナンス:
1992年:75万円(平均人月)×10人(含む営業)×12ヶ月(メンテナンス期間)=9,000万円(見込み人件費)。
販売経費(出展、営業)=1,000万円。
約1億(マイナス)。
1993年:75万円(平均人月)×14人(含む営業)×12ヶ月(メンテナンス期間)=12,600万円(見込み人件費)。
販売経費(出展、営業)=800万円。
約1億3,400万円(マイナス)。
1994年:75万円(平均人月)×15人(含む営業)×12ヶ月(メンテナンス期間)=13,500万円(見込み人件費)。
販売経費(出展、営業)=400万円。
約1億3,900万円(マイナス)。
年間の受託収入:
営業売上に含まれていたので不明。
和田チームも徳田チームも、月75万円以上は確実に仕事をこなしていたけど、不本意ながら計算上75万円で±0とする。
回収売上:
1991年:2億4千万円(前バージョンのDrawing経費は以前の資料に転載してない)。
1992年:2億1千万円。
1993年:1億9千万円。
1994年:1億1千万円。

したがって、開発部の利益は、
1991年:2億4千万円−5,000万円=1億9,000万円(ただし、前バージョンの営業活動とメンテナンスも行っていたので、実際には1億5千万円程度と見たほうが良い)。
1992年:2億1千万円−10,000万円=1億1,000万円。
1993年:1億9千万円−13,400万円=5,600万円。
1994年:1億1千万円−13,900万円=−2,900万円。
となり、開発費5,000万円は初年度で「売上見込み」を達成した。
ちなみに1990年以前のDrawing開発費は鈴木建設からでていた。1992年ごろまで開発費を受け取り、さらに営業利益をも受け取っていたのである。
そのかわり、1991年の新バージョンからは、自前で開発費を捻出する必要があったが、その後も若干の開発費を鈴木建設はイーストに入れていた。
しかし、1994年の決算は大幅な赤字を生んでしまった。原因はDrawingの売上が落ちたためだ。

曽根昭 イースト社長イースト全体でみると、
1991年(1990年度):19,800万円(15,800万円)。
1992年(1991年度):9,600万円。
1993年(1992年度):4,320万円。
1994年(1993年度):−4,020万円。
と推移していき、1994年の決算にはマイナスとなった。
つまり、Drawingの調子が落ちてくると、イーストにとっては大問題だったわけである。
1993年以前の利益は、役員報酬、賞与、社員旅行、事務所移転費…等に使用した事となっている。
想像するに、毎年の利益はきっちり使い切っていたであろう。プール金を作るなんてことはしていない。
あの特別ボーナスも、社員旅行も、事務所移転も…全てDrawingの売上で賄い、そして使い切っていたのだろう…。

 参考までに、後年提出された隠岐会長の資料によると、1994年までのイーストの累計利益は、
技術部:−8,701万円。
開発部:−1,620万円。
もし、隠岐会長の資料が正しいのなら、イーストの技術部と開発部の赤字が予想通り、過去から累計されていたことになる。(これは開発部で出ていた利益を技術部に振り分け、残りも全て使い切っていたことになる)
つまり、(1400万円(1992)+1280万円(1993)+1120万円(1994))(技術部)+2900万円(1994)(開発部)=(赤字)6,700万円(曽根社長の資料による)。
更に湯川の証言から、鈴木建設に対するロイヤルティ未払い2,000万円があり(これは曽根社長の資料には無い)、これで8,700万円の赤字。
よって、8,701万円+1,620万円=約1億円(隠岐会長計上のイーストの負債額)。
1億円(隠岐会長計上の負債額)−8,700万円(曽根社長計上の負債額)=1,300万円(私が把握していない負債額)。
 隠岐会長の資料を信じると、未だに1,300万円の使用用途が不明。
これは私が思うに、技術部の月当たりの負担金は曽根社長の見こみより悪く、1人80万円以上だと思われる。
ここも推測だが(後に曽根社長が「1億円が…」と悔やんでいたり、鈴木建設が1億円の仕事を振り出したので)、1994年の決算で、イーストは1億円の赤字があったことも間違い無いと思う。
残念ながら、隠岐会長の提出資料が正しいと思われる(ロイヤルティ未払いの件からも曽根社長の「いいかげんさ」が出ている)。
なにはともあれ、その後イーストを赤字に追い込んだ技術部の責任として、吉田部長が退社に追い込まれる口実になるのだが、また後述…。

帳簿 以上を総括すると、当初は技術部の慢性的な赤字を開発部が埋めていた構図となる。
これは会社としては問題ではない。どこかの事業が調子悪いときにどこかの事業が助ける。それは、将来ガンバレ!の意味を持っている。
しかし現実は、社員の誰一人として状況把握をしていなかった。当然、ガンバレ!なんて思っていない。
平等主義で売上を慣らしていたために、社員の自分の部に対する状況を把握していないのが原因だ。
まぁ、独立採算を徹底していたら、技術部はバブル時にボーナスどころではなかった…これはこれで問題なのかな?
 また、開発部も事業拡大のために無駄な人材の投入が響いた。これは人材の投入で上向きになれば良かったのだが、長井チームの慢心が裏目となった。
少なくともメンテナンスの責任を負っているのなら、Drawingの売上がどのように推移したか?を自覚するべきだ。
ちなみに1990年度以前のイーストでは、技術部も開発部もマイナスになるようなことは無かった。

以上のことは経営者もさることながら、部長クラスの責任とも言える。
 技術部の吉田部長は常々「技術部は売上がある」と言っていたが、設備投資と固定費を計算から外しており、更なる売上アップを図らなかった。
おそらく、技術部全員がそう思っていただろう。なぜなら上に立つ人間がそうだと思っているから仕方が無い。
水上部長は経費のことを計算していたのだろう。そのため多少とも無理をして仕事を受注していたと思われる。
結果として社員にキツイと言われたのだと想像する。
その後、技術部は事務所を閉鎖したり、固定費の支払いが終わったので、売上は一時期上昇するが、新規受注の契約を誰もしないので突然売上が落ちる。
そして再び出向に社員を送り出すようになるのだ。当然といえば当然だが、社員はただ不満を言うだけ…。
 開発部の長井部長は、Drawingの質の向上と新たな開発を怠った責任がある。
いくらDrawingの当初に売上があったとしても、それは初期開発の投資を回収しプラスに転じるまでのことだ。
その後の責任はDrawingメンテナンスチームにある。つまり、次の利益を生む製品開発に全力で当たらなければいけない。
そうでなければ会社の資金が転がっていかないのだ。人材投入はいけないことではない。問題なのは投入した人材で何かを生み出すことだ。
隠岐敬一郎 センチュリー社長その後、開発部は縮小したが次の製品開発を怠っていたため、売る物が無い状態に陥り、新規製品開発投資分を上乗せした売上目標を達成できないで、経理上赤字になる(実質的には±0)。
 このあたりが湯川の言う、営業部と技術部の対立になるのだろう。
実際に後年、吉田部長は「営業部が財政を圧迫している」と主張していたが、過去の技術部の赤字の責任を忘れてはいけない。
また、無理な営業部の売上目標の設定を負わされたことは長井部長にあったことを認識するべきだ。吉田部長は、長井部長をかばってもしょうがないことだ。
その時の詳しい話は隠岐会長の登場を待たなければならない。
隠岐会長は、その辺のことをしっかり見ぬいている。イーストが彼の手に渡ってから断行した手の内を見ればわかる。
当然、隠岐会長と吉田部長と対立することになるのだが…問題は更に先にあった。
イーストに売上は回ってこないのだ。それは後のお話…。


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