富士山と富士五湖の情報局

河ロ湖干上がる

河ロ湖干上がる

河ロ湖干上がる 天文2年(1533)の春は、物価も安定し収入も多く、人ぴとの暮らし向きは安泰でした。
しかしこの年は、各地に火事が発生し、武田館の御所が焼け、郡内では2月に名橋猿橋(大月市)が燃上。続いて四日市場(都留市)、谷村(都留市)に火事が発生。3月16日夜の上吉田の大火は、上行寺を残し全焼しました。また、河口湖(大原の海)は干魃で干上がり、鵜の島へ徒歩で渡ることができたといいます。
 この年の郡内は、火事、干魃、大雨と、ご難続きの1年でした。
 このほか『勝山記』には、小山田越中守が70坪の家を造り国中に移り、武田晴信は、河越城主上杉朝興の娘を妻に迎えたことなどが記されています。

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